【特集】ダバオで活躍する日本人を特集 – YOUは何しにダバオへ?〜クヤ・ノリ編〜

猪俣さん

皆さんこんにちは!ダバオッチのミズキです。お久しぶりの「YOUは何しにダバオへ?」第2弾。フィリピンと日本は縁のある国ですが、中でもダバオは特に繋がりが顕著です。それが誰かの人生に良い影響を及ぼすこともあれば、また逆も然り。今回は、日本とフィリピンの歴史の間に取り残された人々のために奔走する、猪俣典弘(イノマタ ノリヒロ)さんにお話を伺います。

猪俣さんと言えば、ダバオッチにも何本かコラムを寄稿してくださっているので、ダバオッチの読者の皆さんはご存知の方も多いのではないでしょうか?しかも実は、私事ですが、筆者も日本にいた頃、インターンでお世話になっており、個人的にも今回取材したお話はぜひ聞いておきたかったのです……!

猪俣さんは、大学生の頃からアジアを飛び回り、フィリピンの大学院に進学。その後NGOで世界中を股にかけ、2005年からはフィリピン日系人リーガルサポートセンター(以下PNLSC)でのお仕事を始めました。今では様々な人から「クヤ・ノリ(ノリ兄さん)」と呼ばれて親しまれています。取材では、猪俣さんの人生、仕事、考え方などたくさんお話しが聞けたので、ぜひ最後までお読みください!


猪俣典弘(いのまた のりひろ) 1969年生まれ、横浜市出身。Asia Social Institute司牧社会学修士。 在学中フィリピンの農村、漁村にて、上総(かずさ)堀りという日本の掘り抜き井戸の工法を用いて現地NGOと共同で井戸掘りを行う。大学卒業後、海外、日本のNGOより旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣され、現地勤務を経験。2005年から認定NPO法人フィリピン日系リーガルサポートセンターで太平洋戦争によって離別、死別を余儀なくされた日本人2世の親族探し、国籍回復支援している。2011年から日比NGOネットワーク運営委員副代表。ダバオッチ創設者のハセガワ氏とは同志であり、10数年来の飲み仲間。


フィリピン日系人、残留2世の国籍回復問題とは?

今回の取材は、ダバオ市のフィリピン日系人会事務所で行われました。取材が始まると、猪俣さんはまず、NHK Worldのとある番組を見せてくれました。

NHK World 230609InDepth) 日比に引き裂かれた家族 from PNLSCINC on Vimeo.

動画の中では、ミヤギ テルコさん(取材当時93)と、星子ハルコ・ペラヒアさん(同84)が特集されています。 テルコさんは日本に引き揚げた2世。93歳の今も生き別れのきょうだいを探しています。ペラヒアさんはフィリピンで父親と生き別れ、84歳の今までフィリピンで、苦しい境遇の中を生きてきました。

いずれの問題の始まりも、1903年、日本人がフィリピンへの移民を開始したことにあります。彼女らの父親は、戦前にフィリピンへと渡り、フィリピン人女性と結婚、子どもをもうけ、家庭を築きました。そうして紆余曲折はありつつも、概ね平和に暮らしていた彼らですが、戦争がその暮らしを破壊しました。

例えば日本人移民の多かったダバオでは、戦争に参加した日本人移民5,027人のうち、生存したのはわずか374名。民間人でも戦況の悪化により、当時の日本人移民全体の約半数が亡くなったという記録があります。このようにフィリピン人の母親や2世たちは、往々にして戦中の混乱や、さらに戦後の強制送還により父親や兄弟と生き別れ、連絡を取る手立てもなくフィリピンに残されたまま数十年を過ごすような状況に陥りました。

当時、国籍に関しては、父系血統主義を敷いていた日本とフィリピン。敵国日本の血を引くことを知られるのは命の危険を伴い、かといって母方の国籍は継げない。そのような状況から、日本人の子孫でありながら日本の国籍を得られない、無国籍状態の残留2世が大勢生まれ、それが現在まで継続している、というのがこの問題です。同時に、猪俣さんが解決しようとしている問題でもあります。

さらに、2世の平均年齢は2023年現在で80代。かなりの高齢ということで、解決より先に消滅してしまう可能性があり、緊急性も高いのです。 猪俣さんが寄稿して下さったコラムを読むと、もっと詳しい背景が掴めるかと思います。

参考文献:
飯島真里子 2016「フィリピン日系ディアスポラの戦後の「帰還」経験と故郷認識」、『文化人類学』80/4

【コラム】ダバオ土地所有をめぐる軋轢をやわらげたのは、多くの国際結婚だった<前編>

【コラム】平和に共存していた邦人社会は跡形もなく崩壊した<後編>

国籍回復支援に携わるまで

大学在学中から、ボランティアなどでアジアの国々を飛び回っていた猪俣さん。当時好景気に沸いていた日本を飛び出て様々な国を訪れる中で、その文化の多様さ、深さの魅力にどっぷりとはまっていきました。

しかし同時に、深刻な貧困などの問題にも気づきます。旅行で楽しむだけではなくて、何かもっと、お世話になったアジアの国々の人たちの役に立つようなことをしたい。そう考えた猪俣さんは「水」の問題を解決するべく、当時の上智大学に存在していた「アジア井戸端会」という、井戸掘りの技術を教える団体の活動に参加するようになりました。

その団体の活動で、猪俣さんは初めてミンダナオ島の地を踏みました。ミンダナオ島の田舎ともなれば、当時は電気も水もありません。しかしどうして水がないのかという問題には、戦後日本の企業の活動も一因となっていました。経済強国となった日本は、フィリピンの土地を買収して山の木を伐採していました。環境への配慮を無視した伐採は山の表土を流出させ、水を冷やすことを不可能とし、川の水の蒸発に拍車をかけることに繋がっていたのです。

ここで猪俣さんは、好景気の裏に隠れた、当時の日本とフィリピンとの関係に目を向けるようになりました。しかしこの頃はまだ、戦前にまで思いを馳せることはなかったそうです。

その後2年間、ルソン島バターンでNGOの活動に参加した猪俣さんは、「留学して専門性を高めなければ」と思い立ちます。地元の神奈川県の奨学金プログラムに応募し、無事に枠を勝ち取ると、Asian Social Institute(以下ASI)というマニラの大学院に進学しました。

フィリピンを選んだ理由は、開発の分野でフィリピンはかなり進んでいたから。しかし元々は、フィリピン大学への進学を予定していました。「上からではなく、文化に根ざした開発をしたらどうか」という、猪俣さんの尊敬する神父さんの言葉でこれを覆し、1997年からASIで開発を学びました。

猪俣さんの開発に対する考え方の根底には、「開発の名の下に、現地で生きる彼らの自尊心を失わせることがあってはならない」というものがあります。だから、基本的に援助はあくまで補助に徹し、中心を担うのは彼ら自身であるべき、という考え方です。

ところが、そうはいかない問題も中にはあります。それがフィリピン日系人の国籍回復でした。2世の彼らは日本国籍を求めているけれど、その方法を自力で調べる手立てはないに等しく、時代の歪みに取り残されていました。これは絶対に日本人の手が必要ということで、2005年からPNLSCでの活動に入っていったのです。

国籍回復のプロセス

2世の国籍を回復するには、身元を探し出さなければなりません。まずは、2世の居場所を突き止めます。これは主に口コミです。これまでに700件ほどの身元探しを行ったといいます。2世を探すにあたっては、紙面上の情報が役に立たないこともあるため、人伝に探すという地道な方法が強いようです。

さて、2世と会うことができたら、今度は陳述を取ります。2世の父親を特定するためです。名前・出身地・仕事・フィリピンに来た際の同行者・婚姻について……などを話してもらいます。両親の結婚や2世本人の出生・洗礼などの証明書があればそれも強力な証拠になります。しかし証明書が発行されて長い年月が経っている事による劣化、身の危険に陥って証明書を破棄する場合があることなどから、証明書が無事に残っている可能性はそれほど高くはありません。

本人の人生についても陳述を取ります。自らの出生についてや、戦時中の避難の様子を語る上で、欠かせない記憶が「父との離別」です。戦争が始まってすぐ、父親は日本軍に協力するために山に入り、それっきり。あるいは、戦争が終わって、会うこともできないまま父や兄弟だけが強制送還され、自分は取り残された。そして戦後、日本人の子供ということで負ってきた迫害・差別の苛烈さ……。

しかし書類上、2世は日本人の子供であることが認められない限りは無国籍です。どうか、自分が日本人であることを認めてほしい。猪俣さんは活動を通じて、そのような切実な願いを幾度となく聞いてきました。

身元が判明すると、今度は親やきょうだい、親戚などとの再会が叶います。戦前日本に帰って、戦争によってその後の消息が断たれた兄や、ダメ元で探した父親と生きて再会を果たせた。または、家族は亡くなってしまっていたけれど、お墓参りに行くことができた。そのような、家族としての振る舞いができるようになります。

この際、身元ははっきりしているけれども、日本国籍の取得には至っていない、という場合があります。つまり、パスポートが取得できません。PNLSCが入管と交渉し、なんとか日本での家族の再会に漕ぎ着けることもあったそうです。

国籍回復支援の昔と今

猪俣さんがPNLSCでの活動を始めた当初、例えばダバオでは、猪俣さんが日系人会を訪れると、どこからかそれを聞きつけた大勢の2世が押しかけてきたそうです。携帯電話もない時代に、いつ来るかわからないジプニーを待って、市内とはいえ遠方からはるばる来ていたのだとか。

仕事もそんな彼らへの聞き取りが主で、とにかく2世から直接情報を集めるというものだったそう。日本国籍の就籍が叶った際には、日系人会に様々な種類の食べ物が届けられた、なんてことも。

しかし現在、前述の通り2世は高齢で、長距離の移動が身体に堪えるため、日系人会まで来ることが出来なくなってきました。そのため、猪俣さんやPNLSC、日系人会のスタッフの方が、例えば片道8時間かけて1軒を訪れるような形になっています。

聞き取り自体も年々難しくなっています。終戦からもうすぐ80年。記憶が風化し、覚えていることが減っていくのです。猪俣さんは3世に対し、2世に対する聴き取りのワークショップを開催して必要な情報を聞き出せるよう教育したり、彼らに2世の語りや歌を録音などの形で記録するよう伝えたりしています。

また、活発な日系人の世代が2世から3世や4世に移った今、彼らは血の繋がりの他に、文化的な面で日本のアイデンティティを獲得しようとする動きがあると言います。「何を以て日系人なのか」を問い直し、アイデンティティとしての日本語を学んでいるのだそうです。ダバオのフィリピン日系人会国際学校やミンダナオ国際大学がその最たる例と言えるでしょう。

さらに、今回猪俣さんがフィリピンを訪れていたのは、聞き取り調査のほかに官公庁との折衝という目的もありました。これも大きな変化の1つです。この取材の翌日(6月15日)から日本の外務省の第17次調査が開始され、フィリピンに残る日系2世が改めて調査されています。長年見落とされ、取り残されてきた彼らを、もう取り残さないようにというのが猪俣さんの願いです。

昔から2世を探す方法としては、口コミのほかにラジオやタブロイド(現地の新聞)を利用していたそうですが、最近ではFacebookも活用しているそう。

猪俣さんの想いとこれから

4月18日から6月18日まで、実に2ヶ月もの間フィリピン各地を飛び回っていた猪俣さん。次にフィリピンに来るのは7月後半からの予定で、その時には、最初の方の映像でフォーカスされていたテルコさんのきょうだい探しのために出来ることをてんこ盛りにしてサポートする予定なのだとか。きょうだいは見つかるかもしれないし、見つからないで終わってしまうかもしれません。それでも、テルコさんの心の整理がつけば、と猪俣さんは考えています。

最後に、この問題に関する様々なテーマについて、猪俣さんが伝えたいことを伺いました。

ダバオについて

ダバオに興味がある人に対しては、まずダバオの歴史を知ってほしいとのことでした。それを知ることで、自分たちの座標を知ることができるのだそう。

歴史を辿ると、ダバオにはかつて、豊かな日系社会が築かれていました。現在の日本は世界でも指折りの軍事費をかけ、ハード面の国防を強化する国となっているけれど、もっとソフトな部分にも目を向けてほしい。日本を好きでいてくれる人に目を向けることも、一つの国防の形であり、親日の雰囲気の強いダバオではそれが感じられるといいます。

残留問題と戦争について

残留問題は、78年前の出来事から現在まで残り続けている問題です。78年というと、人間の一生に相当します。当然亡くなる2世も多く、体験者がどんどん消えていきます。と同時に、次の世代に引き継ぐ必要にも迫られています。今もまだ、自らの父親やきょうだいの身元を探し続ける彼らに対し、日本人が考えるべきことは何でしょうか。彼らは何を残してくれているでしょうか。

猪俣さんは、それは「戦争を繰り返してはいけない」というメッセージだと捉えています。戦争は、命だけでなく、そこで生きていた人の努力や、人生を懸けて築いたものを奪います。ダバオでは、戦前の主要産業にまで発展したアバカ栽培のための農園が、戦争によって破壊されました。そこに至るまでの血の滲むような努力が無に帰したのです。フィリピンだけでなく、日本でも同様のことが起こったのはご存知の通りです。

そのような歴史を辿ったはずのですが、現在は欧米に倣った防衛政策を実施しています。しかしそうではなく、日本ならではの、欧米に依らない政策を、打ち出すべきではないか、というのが猪俣さんの意見です。

日系人について

日本人の子孫である彼らは戦後、貧しい生活を余儀なくされました。手始めに全財産を没収され、次いで父は日本に帰され、または亡くなり、さらに日本への悪感情から、とても教育を受けられるような状況でもなく……となれば、この負の連鎖は続くことになります。

しかしその後、日系人ということが有利に働く状況が生まれました。日系人ビザによる日本での就労です。猪俣さんが2世に「夢は?」と尋ねると、ひとつには「家族に会いたい」ということ、そしてもうひとつには「就労の道が開けたら」ということがよく語られるのだそう。どちらが先に語られるかは、完全に聞き手の聞き方に依ります。

かつて移民送り出し国を出た日本人は120年前、フィリピン人社会に受け入れてもらった側です。しかし戦後、我々日本人はフィリピンに対して平等な付き合いをしてきたでしょうか。猪俣さんが初めてミンダナオを訪れたときのことを振り返っても、是とは答えられません。また、人口が減少の一途を辿る現在では、移民として日本に来る彼らの世話になる可能性も十分ありえます。

彼らが日本に来るのは、悪意ある言い方をすれば「お金のため」かもしれません。しかし、貧しさゆえに苦しんできた2世が、自らの子供たちにそこから抜け出す機会を与えられるのだとしたら、その戦略を取るのは妥当なことではないでしょうか。

「自分たちがフィリピンに向ける視線は本当に正しいのか、それを振り返るべき」

日本人の眼差しにはどこか驕りがあり、それが残留2世支援の遅れにつながった、と猪俣さんは考えています。

国籍回復の目指すべきゴール

1件1件の解決ももちろん大切ですが、猪俣さんが現在目指しているのは、一斉救済。それによって問題が消滅する前に解決することを可能にするのです。そのためには、日本での立法が不可欠です。法案の提出は現在でも可能ですが、法案を議会で通すためには、世論で立法の気運を高めることが重要になります。現在は、世論形成のため、メディアにも積極的に掛け合い、取材に来てもらう機会を増やしているそう。

2021年にはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)がフィリピンの残留2世について言及し、国籍回復に向けた追い風が吹いています。なんとかして一気に巻き返したいところです。

8月には国会議員の方が慰霊祭に合わせてダバオを訪問する予定で、歴史的にも重要な出来事となるでしょう。9月にはテルコさんのダバオ訪問も予定されています。

残留2世がなぜ「日本国籍」にこだわるのか、当事者の気持ちにならなければ、この問題の根本的な解決には近づきません。今の2世は物心つく前に父親と別れており、当時の記憶がほとんどありません。彼らの記憶のほとんどは伝え聞いたことですが、日本人の父の子であることを支えにこれまで生きてきました。

猪俣さんにとって、国籍回復や身元探しは「命のつながりを確認すること」であり、単なる数値や記録の問題以上のものなのです。

2世の皆さんの声や猪俣さん、PNLSCの活動は、共同通信ANNのニュースからも見ることができます。戦争のことを考える機会の多い8月。日本ではあまり知られていない日本人の存在にも思いを馳せる機会となればと思います。

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