皆さんこんにちは!ダバオッチのホノカです。今回はダバオで活躍する日本人にインタビューする、「YOUは何しにダバオへ?」のコーナー第4弾。インタビューさせていただいたのは、Nakashin Davao International Inc 代表取締役兼ミンダナオ日本人商工会議所会頭の中尾圭佑(ナカオ ケイスケ)さんです!
中尾さんは先代がダバオに会社を作ると決めた2003年から経営に携わり、現在に至るまで計7年ミンダナオ日本人商工会議所会頭を務めています。そんな2003年から始まった中尾さんの長きダバオストーリーは成功ばかりではありませんでした。しかし、中尾さんは向かい風を逆境とせず、むしろ追い風に変えて躍動し続けています。
中尾さんの芯の強さの原点と言える、学生時代のお話から、リーダーとしてのあり方、人生論や失敗からの逆転。中尾さんの素敵な考え方や言葉がたくさん詰まっていますので、ぜひ最後までお読みください!
【略歴】
1981年 鹿児島県いちき串木野市で生まれる
2001年 大学2年生で父の調査に付き添い、初めてダバオへ
2003年 ダバオで会社経営や工場建設の準備を開始
2005年 Nakashin Davao International Inc操業開始
2013年 ミンダナオ日本人商工会議所会頭に選出(〜2017)
2021年 再度会頭に選出(〜現在)
目次
Nakashin Davao International Incについて
Nakashin Davao International Incは、2005年9月にダバオ市に操業が開始された、製造及び輸出会社です。マンゴーやパイナップル、バナナなどのフルーツを、冷凍製品やプリンやアイスクリームなどの加工製品にして新鮮なまま日本、フランス、中国に届けています。 元々は魚肉加工を行っていましたが、2009年にフルーツに移行しました。ダバオ周辺の地域の農家から厳選した、高品質の原材料を鮮度を保ちながら安全に提供することにこだわっており、品質保証と製品安全において高い基準を維持しています。
現在従業員は約180人(正規雇用約150人季節雇用約30人)。関連会社には鹿児島県にある、有限会社中新商店と株式会社ナカシン冷食があります。
詳しい概要や商品はNakashin Davao International Incのホームページをご覧ください。
ミンダナオ日本人商工会議所について
ミンダナオ日本人商工会議所(The Japanese Chamber of Commerce of Mindanao 以下JCCM)は、日本とフィリピンの双方の協力関係や繁栄に努めることを目的として、ミンダナオ島にて起業を図る、日系企業のサポート(情報取集、分析、発信、調査など)を担っています。海外の目覚ましいダバオ進出とは対照的に、出遅れが目立つ日系企業を引っ張るリーダー的存在でもあります。
日本人商工会議所はダバオの他にマニラ、セブにも事務所を構えています。JCCMはミンダナオと日本の架け橋として2007年に設立。現在の会員数は40社で法人正会員20社、法人準会員3社、賛助会員17社が参加しています。
詳しくはJCCMのホームページをご覧ください。
それでは本題に参りましょう!
1. YOUは何しにダバオへ
一番最初にダバオに来たきっかけは、大学2年生の夏休み、父親のダバオへ調査について行ったことです。「ちょうどテロが起こっていた時期で死体が至る所にある。皆が拳銃を持ち、物乞いも絶えない、東南アジアって面白い」というのが最初の印象です。2003年3月に先代からダバオに会社を立ち上げることを持ちかけられ、将来的に経営したいという考えと、社会人1年目から経営に携われ、自己資本金の調達が必要でないということでダバオに行く決断をしました。
ダバオにきて天野洋一氏(ジャーナリスト)にお世話になりながら、市場に行って商品を考えたり工場建設地を探したり2003年12月に予定地を見つけ売買契約書を結びました。また、全く英語が話せなかったため、積極的に近所のおじちゃんと飲みながらコミュニケーションを取ったり新聞の見出しを毎日訳したり、会社の経営に困らないくらいまで8〜10時間勉強を続けました。
2004年9月に会社設立の兆しが見え、同年12月にNakashin Davao International Incを設立、2005年から操業を開始しました。
➡︎先代はなぜ「ダバオ」を選んだ??
1990年代、日本でも食中毒事件がニュースで大きく取り上げられ、『食の安心・安全』が強く求められるようになった中、日本の食品加工業は多くの原料を中国に依存するようになっておりましたが、加工された原料が入った段ボール箱から包丁が出て来るなど衛生管理を疑うような出来事もありました。さらに、日中間の関係が悪化し、将来的に中国から原料を確保できなくなる可能性も考えられ、自分達で安全に安定的に原料から加工できる工場をできる国を探そうとなりました。先代がダバオを決定した一番の理由は人材確保です。加えて一番コミュニケーションが円滑に取れそうな英語を話していたことも理由の一つです。
2. 幼少期から学生時代
初代の中尾新左エ門が港開発を行い、二代目新之助が元祖さつま揚げを作った、鹿児島県いちき串木野市で生まれ、「中新の坊ちゃん」として育ちました。坊ちゃんとして贔屓される生活への不満がとても大きかったです。
高校生活は期待していたものではなく、つまらなかったために学校へは行かず他校、特に友達の通う芸術科のある高校に遊びに行ってばかりいました。そのため勉強はできなかったが「他の人がやらないことをやる」ので卒業要件を欲しいと先生と交渉し、生徒会長以外の全ての役職をやりました。前に出るのが好きなタイプというよりは他の人がやらないことをやって得点をもらうのは効率がよかったのが理由です。
大学に入ってから坊ちゃん時代の金銭感覚で過ごしていたら、お金がすぐになくなっていきました。仕方なくコンビニでバイトを始めましたが、店長とは気が合わず3日でやめ、居酒屋でのバイトを始めました。休みなしで働いているのに貰えた給料は月に3〜5万円プラス毎日の賄いでした。ご飯がもらえるなら文句は言えないなという気持ちで、長い間働いていました。次に働いたのはKFC。研修やマニュアルがあるホワイトな環境に驚き、KFCの手の洗い方やマニュアルは今の会社にも活きています。無駄な忙しさが嫌いだったのでお店の効率化を常に考え続け、ロスを減らし利益を増やし、店長から仕事っぷりを認めてもらっていました。もっと働きたかったのでさらに掛け持ちを増やし寝る間を惜しんで働き、稼ぐ手段としての仕事がいつの間にか、目的にすり替わり、使うことすら忘れ、貯蓄が大きく増えていきました。これを起業の資本金の一部にしようと考えていました。一つ一つのバイトの経験が自分の考え方や心構えに結びついていて無駄ではありませんでした。自分の中で仕事=報酬以外の楽しみがあるというマインドを作ってくれました。
3. Nakashin Davao international Inc 初期
元々は薩摩揚げを商いとする中新商店の流れからナカシン冷食も魚肉加工品を多く使用しており、その原料として魚肉原料を取り扱っていました。車で7時間かかるところまで魚を買い付けに行って工場で加工して商品に仕上げてという日々が続き、一番忙しい時は朝5時に工場に入り、7時に従業員を迎え、夕方まで魚の捌き方を教え、従業員が帰った後に1人で掃除をしたり、記録表を作ったりしました。魚の買い付けが、22時、0時、朝の3時と続くため電気をつけ携帯を握りしめながら寝ていました。間違えて倍の量の魚を買ってしまった時は従業員を帰らせ、翌朝まで1人で魚を捌いていました。その時に5秒で1匹捌けるようになり、無駄に思える反復作業が最適化された瞬間であり、最適化された瞬間がとても楽しかったです。
しかし、調査が甘く、商業ベースでの漁獲量が確保できなくなり、マグロやカジキなど他の魚にも挑戦しましたがうまくいかず、2009年から魚肉加工を諦め、ミンダナオ島にて豊富な収穫量があるマンゴーなどの果物に完全移行しました。当初はマンゴーについての知識がなく、原料の約9割を追熟中に腐らせてしまったり、お届けした商品が酸っぱいなどのクレームを頂いたり、うまくいかないことが多かったですが、研究と改善を重ね3年目くらいから、やっとマンゴーを売り出せるようになりました。今ではロスが0.1%まで減りましたが、失敗を重ねたおかげだと思います。
4. 2016年の大事件
2016年に工場閉鎖に追い込まれました。当時は主力として季節性の果物を扱っており労働力の流動性が必須な為、人材派遣会社を通して労働力の確保を行っておりました。そんな中、内部調査にて人材派遣会社が契約違反にあたる労働者に対する報酬の中抜き、社会保障の未納が発覚、一時的に会社が労働者に対する権利を全て立替払いし、人材派遣会社に3ヶ月間の期限を設け改善と未納分の返済を求めました。しかしながら、改善も返済行われず期限を迎え、契約の解消、継続した労働者の受け皿として準備していた人材派遣会社への移行を決め、再契約の手続きを行っている中、19名の労働者が再契約手続きに進まず、不当解雇であると主張し工場の前でストライキを始めました。その時には共産党系労働組合組織が加担し、工場の出入り口にバリケード設置し従業員や業者の入退場妨害や脅迫などもあり原料搬入、商品出荷等が出来ず、また工場や自宅周辺に何度も誹謗中傷のビラを貼られたりもしました。
経営者として是正できる内容であれば話し合いにて要求を引き出し、1日も早い騒動の解決と操業再開を目指しておりましたが、相手が主張する要求が見えてこず、代理人を通しての話し合いを諦め、直接、バリケード近くに設置されたテントに入り聞き込みと話し合いに臨みましたが、19名の当事者だけでなく過去に離職している労働者の名前を挙げ75名全員を役職としてマネージャーにて再雇用する以外にバリケード撤去はしないという無理な要求の一点張りで、再雇用等の条件を含め全ての提案できる譲歩案を話し合いにて合意することが出来ませんでした。その時は共産党系労働組合にてメディアに対する我々が悪であるという一方的な世論の形成がされ、連日、事実に基づかない内容にて新聞やニュースにて報道されておりました。
操業停止にて大きな損失が継続して発生している中、時系列に基づいて我々の正当性を示す全ての根拠と証拠を集め裁判を起こすと共に、ラジオにて報道してもらい、それから新聞社も我々、経営者側の取材を行ってもらえるようになり相手側の主張が間違っていると世論が共産党系労働組合に対して逆風となったことで6か月かかりましたが、バリケードの撤去が出来ました。操業停止期間が長期にわたり、それまで取引のあった顧客は別の業者との取引を始めており、仕事が無い状況が2020年まで続きました。順調であった経営も大きく赤字に傾きひたすらゼロからの積み重ねをする辛い時期でした。
5. 2020年から現在に至るまでの大改革
仕事がない状況が続いていた2020年に、パンデミックとなり、帰国を含めた海外への移動が難しくなるとの予測により、先代や日本人スタッフは3月に帰国を決め、1人ダバオに残る中で経営陣を含めた組織改革が理想通りできると思い早速、現地スタッフから役員へ登用し、1年後に2割ほど業務改善ができ、2022年には売上は過去の半分にも関わらず、過去最高の利益率を出しました。権限の譲渡を行い、最初のうちは責任を全て自分が背負うから好きにやりなさいと指示を出し、自分がとれそうな責任が出てきたら、自分で責任を背負いますとと言ってくれればいいよと言っています。このおかげでみんな伸び伸びと成長しています。高卒からうちの会社に入ってスーパーバイザーまで昇格などみんな叩き上げの社員がほとんどです。そのおかげで仕事が自分まで回ってきません(笑)
外からもお客さんが来れず、自分も出張に行けないというコロナ禍で、組織に残り内側を変えるという2020年の方向転換がものすごくうまく行ったと思います。ここに至るまでの色々な事実は変わらないけれども、事実が与える影響はいくらでも選ぶことができます。時間をかけて見方を変えて物事を見れるようになればいいのです。大統領であろうと、社長であろうと、自分と他の人を比較した時に人間として倍は変わりません。であったら3倍か4倍頑張れば結果を変えられます。
社長としての今のやりがいは社員の子たちに給料を払うことです。幸せも持ちすぎると辛いものになります。なので自分か豊かになることよりも、Nakashinを通して従業員、業者さんや地域、お客さんがが豊かになっていくことが一番嬉しいです。
6. ミンダナオ日本人商工会議所会頭になるまで
2007年にダバオ日本人会が内部分裂をし、ダバオにおける重鎮かつ大親分であった三宅光会長を叩き出す事件が起こりました。せめてダバオに商売目的でくる日本人が当地で頼れる場所が必要であるという思いから、天野洋一氏や三宅光氏、先代である中尾純啓をはじめとする多くの発起人の強い思いの下にミンダナオ日本人商工会議所が設立されました。2011年31歳の時に当時の会頭職を担っていたナカヤマ テクノロジー コーポレーション(Digos)の丑丸さんの帰任があり、副会頭であった私が代理として残りの任期である2ヶ月間会頭職を拝命することになり、その翌年の選挙で正式に会頭職を賜ることになりました。
会頭には選ばれたものの何をするのかわからなかったため、最初の1年はセブとマニラに商工会議所の勉強をさせてもらいました。2017年まで会頭を務め、次期会頭の三宅さんが日本に帰られたタイミングで、2021年から現在まで再度会頭を務めています。
7. 会頭としての役目
会頭として気をつけているのは継続して会頭職を続けることで、「中尾の会」と呼ばれないようにすることです。我々は平等であり、公平であり、私利私欲で動かないことを意識しています。しかし、当時日系企業が10社しかなく日本人商工会議所としての力の弱さを感じ、外国人商工会議所と連携もしました。
会頭をしていく中で、商工会議所としてではなく困った時に友人として助け合えばいいのではないか?商工会議所の存在は必要なのかを問い始め、父に相談しました。父に商工会議所がなくなれば、自分のことが嫌いな人は相談しにくくなるだろうと言われた時、商工会議所の存在意義を見つけました。そういう意味でも「中尾の会」にはしないようにしようと心がけています。
会頭として身に余るリターンが2つありました。
①首相官邸に招待を受ける&マラカニアン宮殿に同行
安倍首相からご招待いただいて、初めて日本の首相官邸に行きました。そのあと安倍首相がフィリピンにいらっしゃった際に、同行してマラカニアン宮殿に行きました。その時ミンダナオ島から来ている日系企業が私だけだったので、各国の首相が集まる、首脳会合の中の拡大会合でプレゼンをしました。
【News】安倍首相ダバオ訪問、ドゥテルテ大領領と日比首脳会談
②現上皇陛下との謁見
安倍首相がいらした翌年に天皇陛下(現上皇陛下)がフィリピンにいらっしゃって謁見することができました。皇后陛下と天皇陛下とお話させていただき、頑張ってくださいとお声をかけていただいた時は身に余るほど光栄でした。( https://www.jccminda.com/news/ )
8. 言語や文化が異なる現地スタッフと信頼関係を築く上で気をつけていること
1つ目は心構えを揃えることです。自分はこの国で骨を埋めるんだろうなという覚悟で来たので、どれくらいのスパンで仕事をしたいのか、自分に逃げる場所があるのか否かといった心構えや出発点を合わせることが大切だと思っています。
もう一つは他人は理解できるわけがないという気持ちでいることです。言葉が通じたって、親だって親友だって喧嘩をします。私はそれを共通言語異世界と呼んでいます。それは自分の期待を裏切られた気持ちになるからなので、まず期待をしてはいけません。お互いが納得できるコミュニケーションをすることが一番大事で、自分がどう言ったのではなく、相手がどう受け取ったかを考える、うまくいかない中で、お互いがそのような努力をすることが信頼関係を築いていくことだと考えます。
9. 中尾さんのモットー
人は大きなことを決めるときに迷います。あれもこれもと持ちすぎて、そのうちこぼれそうな瞬間がくるんです。それを1つずつ置いて、数値化します。全部こぼして、間違えた選択をする前に、自分にとって何が必要か、何を残すのかを常に考え自分の人生を選択しています。豊かなことと生きることは違います。お金はもらえなくても賄いがもらえたあの居酒屋が好きだった理由かもしれないですね(笑)。また、今は頑張らないことを意識しています。頑張らなくなったら効率が上がりました。労働時間を短くしても、アウトプットは去年の倍やっていこうと効率を上げることができています。そのおかげで人生が楽しいです。
10. 中尾さんの描く未来とメッセージ
現在日本で言ったら、主にお子さんがいるご家庭のお母さんが利用する生協に商品を届けています。お母さんたちの負担が減り安心でき、子供たちが美味しいというようなものを継続して届けるというコンセプトなので商品は問いません。お客さんがいて満足できるものを届けるという事業を続けたいです。またリスク分散という観点から売上や利益率が高くても大手のお客様一社に依存するような展開は目指していません。
◎ミンダナオ日本人商工会議所会頭として日系企業へ
為替の影響により海外から見て観光以外の日本が市場としての魅力を失いつつある中、日本国内でも価値の創造が人材不足や後ろ向きな決断によりできなくなっています。特に生命線である一次、二次産業の人材不足は深刻であり、技術実習生制度に頼った運営、AIの活用も不十分であり、初期投資費用に躊躇し置き換えが進まず、地方であれば黒字でも人材不足により事業を畳むことも起きております。そんな時経営者として自分の体1つで飛び出してみるとするなら、誰かを送り込むなら、どこに進出するか迷うと思います。ダバオは駐在の方にとっても暮らしやすいです。
また、ダバオに進出するにあたって会社を背負う、ましてや国を背負う気持ちで恥じない行動を取ることが必要です。そうすれば、たくさん失敗しても確固たる信念を持って間違えたものは許してもらえます。技術的なことは商工会がサポートします。現地で潤滑に信頼関係を築いていく鍵となります。
◎今後やりたいこと
自分がダバオに住んでいる中で、自分の存在やあり方を通して日本とフィリピンの関係がより良くなっていくことを体現したいです、そのためには長生きをしないとですね(笑)
◎最後にメッセージ
自分が持っているもので相手が持っていないものを差し出すことで対価が生まれると考えています。同じ時間働いても、もらえる金額は違ったり。人は元々平等ではありません。同じ試練や環境が用意されていない状況をチャンスがなかったという人がいますが、チャンスはどこにでもあります。それを掴まなかった、気づけなかったからです。チャンスが耳に入ってくるためのアンテナを常に張ることが必要です。人が取らないものを組み合わせていくと、価値が出てきます。違うものを排除する教育文化に収まらず、引き出しを増やして自分だけの価値を作った人間が残ります。人生はやり直せるし、人生で無駄なものはひとつもありません。
まとめ
インタビューを通じて、リーダーとして自分が一番努力する姿勢や失敗からしか成功は生まれないので見方を変えて物事を捉えようとする姿勢など、ダバオでさまざまな経験をしてきた中尾さんの言葉は重みが違いました。
記事を通して中尾さんの言葉や信念がより多くの人に届けば幸いです。個人的には中尾さんのバイト時代のお話はとても面白くもっと深掘りしたいと思っています(笑)ダバオという街の治安や雰囲気は大きく変わっても、中尾さんの覚悟は揺らいでいませんでした。
人生で無駄なものはひとつもないというお話がありましたが、中尾さんの過去から現在にかけてを照らしてみると、全ての経験の点が一つの線となって繋がっていることが明らかです。Nakashin Davao International Incの代表取締役として、ミンダナオ日本人商工会議所会頭として、日本とダバオの架け橋である存在の中尾さんの今後のストーリーが楽しみです。
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