猪俣典弘(いのまた のりひろ)
1969年生まれ、横浜市出身。Asia Social Institute司牧社会学修士。
在学中フィリピンの農村、漁村にて、上総(かずさ)堀りという日本の掘り抜き井戸の工法を用いて現地NGOと共同で井戸掘りを行う。大学卒業後、海外、日本のNGOより旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣され、現地勤務を経験。2005年から認定NPO法人フィリピン日系リーガルサポートセンターで太平洋戦争によって離別、死別を余儀なくされた日本人2世の親族探し、国籍回復支援している。2011年から日比NGOネットワーク運営委員副代表。
ダバオッチ創設者のハセガワ氏とは同志であり、10数年来の飲み仲間。
ぼくが2005年に初めてダバオに訪れたのは、前回のコラムに書いたように、フィリピン残留日本人2世たちの聞き取り調査を行うためだった。今回は、その2世の一人にぐっとアプローチしてご紹介しようかとも考えたが、その前に、そもそもなぜ、戦後のダバオに大勢の日本人2世たちが残留したのか、その歴史的な経緯について、2回に分けて紐解きたいと思う。
今からわずか100年前の日本は、出稼ぎ立国だった。江戸時代には3000万人台で安定していた人口が明治期になり爆発的に増加、加えて、急激な工業化は地方産業を疲弊させ、乱高下する米価も零細農家を直撃した。一方で、日本がアジアを植民地化していく中で、国策としての意味合いの強い対外膨張的な移民も急増した。新天地を求め、あるいは貧困から抜け出そうと、多くの日本人が海の向こうを目指していったのだった。
アバカ麻の価格高騰による好景気に湧くダバオにも、大勢の日本人が入植し、1940年には、その数はおよそ2万人にも達していた。しかし、彼らがダバオに根を張り、豊かな邦人社会を地域に築くまでには、少なくない犠牲があったことも記憶しておきたい。
というのも、アメリカ植民地政府によって「未開のフロンティア」と位置付けられたミンダナオだが、実際には、多くの先住民族たちが代々受け継ぎ守ってきた土地であり、すでに豊かな共同体が築かれていた。彼らにとっては、日本人であろうと米国人であろうと、外からの開拓・入植者は「侵略者」に他ならなかった。ダバオ周辺でも、土地の所有権や使用権をめぐって入植者とバゴボ族との間で、争いが頻繁に起きている。吹き矢とボロと呼ばれる山刀で600人もの日本人が殺害されたとの記録もある。