皆さんこんにちは!ダバオッチのミズキです。皆さんは、ダバオが日本と縁の深い街であることをご存じでしょうか?2023年は日本人のダバオ移民入植120周年です。この地に移り住んだ彼らは、アバカ(マニラ麻)の栽培などで街を拡大してきました。日本は、このダバオという街の形成を語るには欠かせない要素なのです。
そこで今回は、ダバオに残る、かつての日本人にまつわるスポットを3つご紹介します!ダバオの中心部からはやや離れますが、大きな道路沿いに並んでおり、1日で一気に見て回りやすくなっています。遊ぶ以外にも何か学びのある旅行がしたい方にはぴったりの観光スポットなので、ぜひ最後までお読みください!
目次
ジャパニーズトンネル Japanese Tunnel
市の中心部から車で約20分ほどのところにある、ジャパニーズトンネル。第2次世界大戦中、この地に攻め込んだ日本軍の基地となりました。当時は全長8キロメートルほどと、かなり長大な地下通路を形成していたようです。
現在は、D’Japanese Tunnel Family Resortというホテルが所有する、約200メートルが公開されています。
受付は、トンネルの右手側にあるホテルのフロントで済ませます。ホテルの内装が予想より日本に寄っていてびっくり。50ペソの入場料を払い、ガイドさんと共にトンネルに入ります。
トンネルの入り口では、銃を持った日本兵の人形と、紅白の着物の女性の人形がお出迎え。綺麗と不気味の両方の感情が襲い掛かります。
トンネル内は暗くてジメジメしています。たまにコウモリが頭上を飛んだりもします。トンネルというより地下壕とか洞窟とかの方がしっくり来ます。壁には所々白い線が入っていますが、ガイドさん曰くこれは鉱物成分(ミネラル)なのだとか。日本軍の基地らしく、仏像もあります。手前にあるのは金の延べ棒のレプリカです。
左の写真は牢屋です。この中に5、6人が入っていたのだとか。あまりに窮屈で不可能なのではと思ってしまいます。信じがたさから何回か確認したのですが、本当にそれくらいの人数が入っていたようです。
右は軍議の様子です。中心の道から枝分かれした細い道の奥、小さなテーブルを挟んで話し合いをしていたようです。そしてまたしても金の延べ棒。こんなに無造作に、あちこちに置いていて大丈夫だったのでしょうか。流石に1ヶ所にまとめていたと信じたいところです。
ガイドさんが詳しく説明してくれるので、知識ゼロでも大丈夫。日本語(ローマ字)の説明ももらえます。
ミンタル日本人墓地 Japanese Cemetery
ミンタル日本人墓地は、ジャパニーズ・トンネルから車でさらに15分ほど北に行ったところにあります。広大な墓地の中心部に、いくつか日本式のお墓が並んでいます。ダバオの開拓に従事した、戦前の日本人を弔うお墓です。
周囲をほとんど全てキリスト教式のお墓に囲まれた中、急に見慣れた形のお墓が目に入ります。屋根がついている方には、故人の名前も刻まれています。右のスタンダードな形のお墓は、他にもいくつか建てられていました。
日本人墓地の中央には、樹齢100年は降らないのではないかという大木がそびえます。木を挟んで反対側には、沖縄からの移民のためのお墓も。
そしてこちらは、2013年に「ダバオと日本の友好の歴史を刻む碑」として建てられた「憂い無しの碑」。移民開始から110周年の記念に、ここに碑が建つということで、どれだけ日本とダバオの関係が大切にされているかが伺えますね。
日本から遠く離れ、気候も言語も異なる地に人生を賭けた人々に思いを馳せると、決して現代の私たちは体験したことも、することもないような、彼らの苦労が偲ばれます。ダバオの礎を築いた日本人たちがいたことを、ここで感じてほしいです。
フィリピン日本歴史資料館「移民」Philippine-Japanese Historical Museum “IMIN”
ミンタル日本人墓地からさらに車で25分ほど北上すると、カリナンという地区に日系人会の施設があります。敷地に入ってすぐの左手がフィリピン日本歴史資料館「移民」です。日本とフィリピンの大きな国旗が入り口を挟むように並んでいます。
月曜から土曜の朝8時から夕方5時まで開いていますが、11時半から1時まではお昼休憩なので、タイミングにはご注意を。大人1人あたり100ペソの入館料を払います。12歳までの子供は半額です。入館の際には名簿に名前を書くのですが、フィリピンだけでなく日本のさまざまなところからここを訪れる方々の名前が連なっていました。
他に人がいなかったこともあり、スタッフの方がガイドをしてくださることに。順路の初めは、当時ダバオに暮らしていた人々が使っていた壺や調理器具、楽器、そして日本人と結婚することが多かったバゴボ族の女性の再現などが展示されています。
続いては、ダバオの発展に貢献した日本人たちです。主にアバカの栽培で成功しました。アバカは繊維が丈夫で、編むことで船用のロープとして使われていました。右の写真はアバカのレプリカです。
当時の日常生活を想像させる展示もあります。ゴザを敷いた上にちゃぶ台、その上にお茶を淹れるための一式が揃っています。ここだけ切り取ると日本のようですね。そして雛人形。日本のご家庭でも、今はこんなに立派な七段飾りを見ることは少ないように思います。
日本人が多く住んでいた土地ということで、ダバオには神社もありました。現在はもうなくなってしまっていますが、不思議な感覚です。
やがて戦争が始まると、武器や兵士を鼓舞するための日の丸などの展示に移り変わっていきます。ダバオでの戦闘では大勢の日本人が、そしてそれを上回る数のフィリピン人が殺されました。
戦争の終結を象徴するのが昭和天皇の玉音放送。ここでは、ヘッドホンからその音声を聞くことができます。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の一節は、毎年8月が近づくとよく耳にするようになります。日本人として記憶を受け継ぎ、残さなければならない事柄の1つでしょう。
館内には日系人に関する本や資料が置かれた図書館スペースもあります。日系人会の敷地内にある学校の生徒たちが課題や勉強などのために借りていくこともあるのだそう。
先ほど紹介したジャパニーズ・トンネルや日本人墓地にも関係することが学べる資料館でした。この後に、そちらの方を訪れてから市内に戻るルートをとるとよいかもしれませんね。
まとめ
ダバオは今やフィリピン第3の都市と呼ばれる大都市ですが、その影には、かつての日本人たちの尽力がありました。特に入植が始まった当初は、かなり厳しい暮らしを強いられていたことは想像に難くありません。
今回の記事でご紹介した3ヶ所では、紹介したもの以外にも、記事に載せ切れていない展示や解説を見ることができます。当時の生活に対す解像度が上がり、ダバオという街への見方も変わるかも。特に皆さんの多くは日本人だったり、日本に造詣が深い人だったりするはずです。行っておいて損はありません。
ぜひご自身で足を運んで、戦前・戦中の日本人の生き様に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?