【コラム】ダバオ土地所有をめぐる軋轢をやわらげたのは、多くの国際結婚だった<前編>

1941年12月8日朝、ダバオの在留邦人たちは、大本営海軍部によるラジオ放送で、真珠湾攻撃と日米開戦を知ることとなった。 当時アメリカ領だったフィリピンの邦人社会は大混乱に陥った。ダバオでも、開戦直後から、17,674名の邦人が「敵国民」としてダバオ市内外の学校や闘鶏場、刑務所や日系企業社屋などに強制収容された。この混乱のさなかに、62人の邦人が米比軍によって殺害されるといった悲惨な事件が起きてしまう。

©PNLSC 民間邦人によって編成された カリナン義勇隊

12月20日、日本軍がダバオに上陸、在留邦人たちは各収容所から一斉に解放された。彼らは、歓喜の「バンザイ」とともに日本軍を迎え入れた。そして、通訳、自警団、食料調達係などとして、日本軍への協力に邁進していくのである。開墾した麻山は切り崩され、食糧増産のための畑や軍用空港へと転用されていった。以後、「隣組」が組織され、「敵性フィリピン人」の摘発に協力するなど、邦人社会は一気に日本軍政に巻き込まれていった。

40年近くかけて築き上げてきた、ダバオ邦人社会の崩壊の始まりだった。<後編に続く>