【コラム】ダバオ土地所有をめぐる軋轢をやわらげたのは、多くの国際結婚だった<前編>

1939年のフィリピン政府による国勢調査では、ダバオの邦人男性と結婚したフィリピン人妻は269人、生まれた2世の数は754人と記録されている。しかし、山間部に暮らす家族や部族の慣習に基づく婚姻などを含め、全ての結婚が捕捉されているとは考えがたく、実際の人数はこれをはるかに上回ると考えられる。こうして、多くの2世が誕生し、ダバオの邦人社会は大きく発展、地域経済に寄与しつつ地元の文化に馴染んでいったのだ。

1940年の時点で、マニラ麻農園を中心に計51万8千ヘクタールが個人またはフィリピン人親族名義で借りた土地が邦人の管理下にあった。ミンタルやカリナンには日本人街が生まれ、仏教寺院、各種商店、映画館、写真館、旅館、病院、駄菓子屋にいたるまで日本人によって営まれていた。

©PNLSC 日本人街

残留二世たちの聞き取りをしていると、当時の賑やかな様子を懐かしく話してくれる。「ミンタルの映画館で日本の時代劇を見た」、「駄菓子屋で買って食べた、ぼたもちの味が忘れられない」、「町の中心に柏原旅館という名の宿があり、父と一緒によく泊まった」と、平和で豊かだった当時の日本人街の様子を振り返る。 実際、日米開戦の気配が色濃くなっていく中でも、ダバオの在留邦人数はほとんど減少していない。血の滲むような努力の末に開墾した土地や家族への愛着は、断ち切り難いものだっただろう。