【コラム】湾内を3周してくれた船長、お茶を差出し苦労をねぎらう記者、フィリピン残留者に対する沖縄の深い共感力

ぼくは車椅子の神山さん姉弟をホテルの部屋に送ったあと、高揚感とともに沖縄市の町を歩いていた。一軒の居酒屋に入り、人生初のオリオンビールでのどを潤していると、「東京から来たのか?」と強面のお兄さんたちの一団に声をかけられた。一瞬見知らぬ土地で「絡まれてるのかな?」かと思いきや、「こっちこい」とのお誘いにテーブルを移動すると「これ飲んでみろ」とウコン茶の泡盛割り「うっちん茶割り」を飲ませてくれた。杯を重ねるごとに意気投合し、結局、彼らとはしご酒となり、朝まで飲み明かした。

翌朝は8時から感動の親族対面、続いて記者会見が行われた。日本側の親族はコテコテの沖縄方言で、対する神山さん姉弟もコテコテのビサヤ語、本来はぼくが通訳をしなければならないのだが、あまりに難易度の高い言語による会話を前にして、飲みすぎた泡盛の由来のおかしな汗をポタポタと流すしかなかったことを強烈に憶えている。思えばこれが、沖縄との長い付き合いの始まりだったのだ。

親族と交流する知念ノルマさん(右から三番目)

いくつもの忘れられない思い出があるが、そのひとつが、残留2世の知念ノルマさんと、父親の故郷であるうるま市の離島・津堅島へ行ったときのこと。日程の関係でわずか2泊だけの津堅島の旅となったが、ノルマさんにとっては初めての父の故郷、初めての父の親せきたち、そして初めての父の墓参りだ。夢のような時間だったに違いない。お父さんのお墓参りに行った時、蝶々が飛んできた。「ほうら、ご先祖様がきたよ」と親族の誰かが言った。沖縄では、蝶々というのはご先祖様が私たちに会いに来る時の仮の姿だと信じられているという。