こんにちは!ダバオッチのゆいです。
今回はダバオで活躍する日本人にインタビューする、「YOUは何しにダバオへ?」のコーナー第11弾、インタビューさせていただいたのは、在ダバオ日本国総領事館の総領事である、小野浩隆さんです!
小野総領事は1988年に外務省に入省した後に、フィリピン大学に留学され、その後在フィリピン日本国大使館での勤務など長い期間フィリピンに関わってきました。2025年の7月に在ダバオ日本国総領事となり、在日邦人のサポート、ミンダナオの日系人問題、日本とミンダナオとの交流強化に尽力されています。
小野総領事の学生時代や留学時代、またフィリピンに初めて来たときのこと、外交官としての信念などを語って頂きました。是非最後までご一読ください!
目次
【略歴】
生年月日: 昭和40年(1965年)4月11日
1988年 外務省入省
1989年 国立フィリピン大学留学
1991年 在フィリピン日本国大使館
2006年 在ニューヨーク日本国総領事館 領事
2010年 在フィリピン日本国大使館 一等書記官
2025年 在ダバオ日本国総領事
在ダバオ日本国総領事館とは
総領事館は、大使館がその国の首都に置かれるのに対して、首都とは別の主要都市に設置されます。今回取材をさせて頂いた小野浩隆さんが総領事を務めている在ダバオ日本国総領事館はミンダナオ最大都市ダバオに位置しています。
領事館の役割としては、ミンダナオにいる日本人の生命・安全・財産の保護、証明書・旅券・ビザ等の発給、ミンダナオの情報収集・分析・経済関係や文化交流の促進を行っています。
今回は小野総領事に様々な質問に答えていただきました!
Youは何しにフィリピンへ?
→最初にフィリピンに来られたきっかけについて教えてください。
フィリピンに来たきっかけは、外務省に入省したことです。入省したのは1988年でした。入省の段階で、専門語学としてフィリピンのタガログ語を担当することが決まっていました。
入省後、まずは日本で1年間、実務研修と語学研修を並行して受けました。その後、マニラに初めて赴任したのが1989年です。これが私とフィリピンとの本当の始まりです。
→フィリピンに来る前、この国にどのようなイメージを持っていましたか?
特にイメージは全く持っていませんでした。当時はインターネットで簡単に検索できる時代ではありませんでしたから。
日本での研修中に先生から話を聞いたり、先生が持っていたフィリピン映画のビデオテープを借りて見たりして、少しずつ情報を得ていました。フィリピン経験のある先輩方から話を聞くこともありましたが、私の周りでフィリピンに行ったことがある友人はまずいませんでしたね。
まさに『地球の歩き方』を片手に、文字からの知識だけで飛び込んだ感じです。期待にワクワクするというよりは、未知の世界に対する緊張感の方が強かったかもしれません。
→実際にフィリピンへ初めて来られた際の、最初の印象はいかがでしたか?
肌感覚で覚えているのは、マニラの第1ターミナルですね。ゲートを出た瞬間のあの「むん」とした熱帯の空気。あぁ、熱帯の国に来たんだなと思わせる、独特の湿り気と、決して綺麗とは言えない空気感(笑)。あの時の感覚は今でもよく覚えています。
思ったよりも「とんでもないところに来てしまったかな」という印象はなく、いざ住んでみると落ち着けました。周りはフィリピン人ばかりで、当時は外国人も少なかったので、異国に来たという実感は強かったです。
→ UPでの留学時代について教えてください。
マニラに来てからの2年間は語学研修期間でした。フィリピン大学(UP)に通いながら、語学学校にも通っていました。
当時はインターネットもなく、手続きは本当に大変でした。履修登録のために右も左も分からないまま大学の窓口に並ぶと、ものすごい行列で、2〜3時間待ってやっと自分の番が来たと思ったら「ここは担当じゃないからあっちへ行け」と言われたり。海外生活自体が初めてで、旅行ですら海外に行ったことがなかったので、最初は不安で心が折れそうになったのを覚えています。
2年間通いましたが、とにかくキャンパスは広大でした。基本的にはキャンパス内で生活が完結しますが、たまにジプニーに乗ってマニラ市内の別の街へ出かけ、息抜きすることもありました。
一つ衝撃的だったのは、キャンパス内の床屋です。日本の裁縫で使うような大きな「裁ちばさみ」で髪を切られ、「これで切るのか!」と驚いたのを今でも覚えています。
また、前任の石川総領事ともバギオへ行きました。車で夜通し走って明け方に着くと、とても寒くて、やっと見つけたホテルもお湯が出ず、震えながら過ごしたのも良い思い出です。

→他の国への赴任経験と比べて、フィリピンはどう感じられますか?
実は私の海外勤務経験は、フィリピンとアメリカ(ニューヨーク)の2カ国だけなんです。ニューヨークにも多くのフィリピン人がいて、総領事館のスタッフにもフィリピン人がいたり、現地のフィリピン人コミュニティに招かれたり。ニューヨークにいても、常にフィリピンを身近に感じていましたね。
振り返れば、外務省生活37年のうち、半分近い15年ほどをフィリピンで過ごしています。人生の4分の1はフィリピンですね。妻もフィリピン人ですし、何かの縁というか、私の人生はフィリピンにどっぷりと浸かっています。
学生時代・外交官を志すきっかけ
→子供の頃はどのような性格でしたか?
基本的には大人しい性格でした。活発というほどでもなく、かといって家に閉じこもっているタイプでもなかったです。小学校の頃は、放課後になると毎日学校に集まって、当時の定番だった草野球に明け暮れていました。
性格としては、大人しいけれど頼まれたら断れないところがあって、学級委員をやらされたりもしました。実はいじめに遭ったこともあるんです。でも、あまり反抗もせず淡々と流していたら、いつの間にかその子とも友達になっていたりして。リーダーシップを取るタイプでも、引っ込み思案すぎるわけでもない、ごく普通の「下町の子」でした。
→ 学生時代に熱中したことは何ですか?
中学に入って野球部に入部しましたが、上下関係が面倒になって1年で辞めてしまいました。その後、友達に誘われてハンドボール部に入り、高校3年の受験前まで部活漬けの毎日でした。当時は日曜日しか休みがなく、土曜も午後まで練習があって、試験前以外はとにかくハンドボールばかりしていましたね。
大学時代は部活には入らず、学園祭の実行委員での活動に力を入れました。仲間といろいろなことに取り組むのが楽しくて、1、2年生の頃は学生生活を謳歌していました。ただ、3年生の4月からは「そろそろ本気でやらないと」と思い、外交官試験の準備に没頭しました。
→ 外交官を目指したきっかけを教えてください。
「これだ!」という決定的な出来事があったわけではなく、徐々に固まっていった感じです。中学・高校の頃から、漠然と海外に関わる仕事がしたいとは思っていました。
高校の卒業生で外務省に入った先輩方と何度かお会いして話を聞くうちに、「外交の仕事も面白そうだな」「海外で働いてみたいな」と徐々に気持ちが固まっていき、高校3年くらいで進路を決めました。外交官を目指すなら法律の勉強が必要だと思い、その後は法学部へ進みました。
色々な人との出会いや影響の中で、少しずつ自分の道が固まっていったんだと思います。
→ 外交官を目指す中で、影響を受けた人物や本はありますか?
先輩方はもちろんですが、本でいうと城山三郎の『落日燃ゆ』ですね。A級戦犯として処刑された広田弘毅を描いた小説です。その生き様には非常に感銘を受けました。
もう一冊は吉村昭の『ポーツマスの旗』です。小村寿太郎が日露戦争後の講和会議で、国民の猛反発を受けながらもギリギリの交渉を行う姿が描かれています。
この2冊を学生時代に読んで、外交官という仕事の生き様や、どこで折り合いをつけるべきかという外交における引き際の難しさを学びました。「自分もいつか、こういう歴史の場面に関わるような仕事がしたい」と強く思わされましたね。
外交官としてのキャリア観
→この仕事をしていてよかったと感じる瞬間は?
自分たちが積み重ねてきたことが、何らかの目に見える形で結実した瞬間が一番ですね。
外交というのは、短期間で分かりやすい成果が出るものではありません。日々の細かなやり取りや、コミュニケーションの中で築き上げていく相手国との信頼関係、あるいは水面下での様々な調整。そういった地道なプロセスの連続です。
だからこそ難しさもありますが、目に見える結果が出た時の喜びはひとしおです。
中でも印象に残っているのは、2016年の天皇皇后両陛下(当時)によるフィリピン公式ご訪問ですね。
現場で両陛下がフィリピンの方々と接されるお姿を間近で拝見できたこと、そしてそのためのサポートの核心部分を担えたことは、私にとって外務省人生で最も印象深い出来事です。

またニューヨーク勤務の際は私は広報文化部門の担当で、主に音楽や「JETプログラム」などのいわゆる文化交流事業を受け持っていました。
その時にゼロから立ち上げたのが、セントラルパークで年に一度開催される「Japan Day @ Central Park」という日本のお祭りです。
これほどのイベントは総領事館の力だけでは到底できません。まずは会場の許可を得る手続き、そして大規模なイベントにするために、多くの日本企業の方々に協力をお願いして回りました。当時の総領事や上司と一緒に企業を訪問し、実行委員会を立ち上げ、民間の方に委員長になっていただき、法人化して資金を集める。まさに手探りでのスタートでした。
当日は、ニューヨーク・シティ・マラソンを運営している団体と協力して「ジャパン・デー・マラソン」を開催し、ステージには日本からアーティストを招いたりしました。目の前で多くの人が日本文化を楽しんでいる「目に見える成果」を実感でき、非常に大きな達成感がありましたね。
→外交官という仕事の厳しさや難しさは?
平成元年に初めてマニラに赴任した時のことはよく覚えています。大使館にご挨拶に伺った際、当時の公使から、肝に銘じておくべきことをいくつか言われました。
そのうちの一つが「外交官というのは、両足を赴任国に突っ込んではいけない。片足は突っ込んでもいいが、もう片方の足はきちんと日本に残しておかなければならない」という教えです。
これは当たり前のようでいて、実は非常に難しいことです。日本の政府代表として赴任している以上、その国の立場に寄り添うだけでなく、常に「日本の国益」を最優先に考え、言動を律しなければなりません。組織の一員として、個人の思いと国益の間でジレンマを感じることもありますが、それがこの仕事の厳しさであり、醍醐味でもあると感じています。
→他にも、キャリアの指針にされていることはありますか?

外務省に入る直前に、尊敬する先輩から「大事なことが3つある」と教わりました。30年以上経った今でも、まさにその通りだと実感しています。
一つ目は、上司や同僚と仲良くすることです。組織で動く以上、人間関係のネットワークは財産です。年を重ねるほど、これまで関わってきた方々との繋がりが大きな支えになります。
次に健康に気をつけることです。 体が資本です。健康を損なえば、どんなに志があっても海外での過酷な任務は務まりません。
そして最後が、結婚は慎重に考えること外交に携わる以上、パートナーや結婚生活は仕事に大きな影響を及ぼします。よくよく慎重に考えるべきだと教わりました。
そして、これらに加えて強調されたのが「要領の良さ」です。
外務省の仕事は膨大です。特に私が若手の頃は、やってもやっても終わらない仕事に囲まれていました。その中で、単に手を抜くのではなく、いかに効率よく仕事を捌きつつ、自分のパフォーマンスを周囲に正しく評価してもらうか。この「要領の良さ」は、キャリアアップを目指す上でも欠かせない要素だと教わりました。
→海外で日本を代表する立場として意識していることはありますか?
若い頃、マニラの大使館に勤務していた時代は、まだ組織や課を代表するようなポジションではありませんでした。もちろん外交官としての自覚はありましたが、今ほど周囲の目を意識する立場にはありませんでした。
仕事そのものに対する考え方は変わっていませんが、総領事として赴任した今は、私自身が「総領事館の顔」として見られます。私自身の考え方や仕事の進め方が根本から変わるわけではありませんが、外部からは常にトップとして一挙手一投足を見られているという自覚を持ち、細心の注意を払う必要があると感じています。
→改めて、外交官としての「信念」があれば教えていただけますか。
「人の中に飛び込む」、つまり人と触れ合うことです。これは時代や場所が変わっても変わらない本質だと思います。技術が進歩し、コミュニケーション手段が多様化した今だからこそ、面と向かって対話する重要性はより一層高まっています。
外交は一朝一夕に成り立つものではありません。国レベルでも組織レベルでも個人レベルでも、理解し合える関係を築くには時間と積み重ねが必要です。テーブルを挟んだ公式な交渉の場も外交ですが、それ以外の場面で私たちが現地の人々と日々接し、活動を積み重ねていく「総合力」が日本のイメージを形作っていくのだと考えています。
最前線で現地の政府や国民と向き合い、日本の外交利益や国益を追求する中で、私は何より「一対一の対話」を大切にしています。大勢の前で論理的に説明する場も重要ですが、相手の本音を聞き、こちらの思いを深く伝えられるのは、一対一で向き合うときです。そこにこそ「本当の外交」があると信じています。
今は「官民一体」のオールジャパンの時代です。外交官だけでなく民間の方々も現地で交流する中で、日本のイメージは多層的に作られます。その中で、私たちにしかできない仕事を果たしつつ、一人の人間としての対話を大切にする。積み重ねた一対一の対話が、両国関係を築く大きな力になると実感しています。
Youは何しにダバオへ?

→ ダバオに初めて来られた際の印象を教えてください。
1991年からマニラ大使館勤務が始まり、97年に日本に帰国するまでの間のどこかで、出張で初めてダバオを訪れました。
当時の印象は、マニラと比べて非常に「のどかで、ゆったりとした街」というものでした。 今のダバオには大きなショッピングモールがありますが、当時はビクトリア・プラザができたばかりか、まだなかったかの時期で、大きな建物もほとんどありませんでした。まさに「地方ののどかな街」という雰囲気でしたね。
→ 在ダバオ総領事として赴任が決まった時は、どのようなお気持ちでしたか?
一言で言えば、本当に嬉しかったです。
私はフィリピンの専門家として採用され、これまでマニラに2回赴任してきました。昨年に60歳を迎え、外務省生活も残り数年というタイミングで、最後を締めくくる仕事として、フィリピンに戻りたいという強い思いがありました。
その中でダバオ総領事の命を受けたことは、私にとって非常に光栄なことでした。東京からも何度か出張で来ていたので、街の雰囲気も分かっていましたし、何より「日系人社会」との繋がりを深められることに大きな魅力を感じていました。
ダバオは日系人の方々が多く、日本とフィリピンを繋ぐ重要な役割を果たされています。日系人の方が運営する大学などの教育機関もあり、まさに「日系人社会のコア」と言える場所です。そうした方々と一緒に仕事ができることは、非常に楽しみでした。
在ダバオ日本国総領事としての仕事

→在ダバオ総領事としてのお仕事についてお伺いさせていただけますか。
とにかく邦人の方の安全を第一に考えることが一番の使命です。
これは当然の、最も根本的なミッションです。具体的には、日本の出先機関として領事窓口での査証(ビザ)発給や、証明事務、パスポート事務といった、事務的な仕事を間違いなく行うことが大きな役割です。
日頃から邦人の方とのネットワーク作りを意識し、できる限りコミュニケーションを取っておくことで、いざという時に迅速かつ効果的に邦人援護ができるようにする。これが「一丁目一番地」と言える、最も大事な仕事です。
また、厳密に言えば国の代表は大使館ですが、一般的な国の代表機関として、日本とダバオ、あるいは私が所管するミンダナオ地域との友好親善を深めることも役割です。経済、投資、観光も含めた交流を、より広く、活発にするためにできることを一生懸命やっていく。これが次に大事な仕事です。
→現在特に力を入れていることや、これから着手したいことがあれば教えてください。
一番は人の交流を促進するためにサポートを深めていくこと、そして次に日系人社会との絆を深めるために何ができるかという点です。
日系人には「過去の問題」と「今後の問題」があります。
過去の問題は日系2世の国籍問題であり、未解決の課題として残されています。
今後の問題は、日系人が3世、4世と世代を重ねる中で、日本とのつながりや日本人としての意識が薄れ、日本語を学ぶ機会も少なくなっていることです。しかし、日本人の先祖を持つ日系人は貴重な外交的資産です。フィリピン日系人会が学校運営などでしっかり組織を整えているため、我々は彼らと協力しながら支援していく形で、交流を深めていきたいと考えています。
その他には、経済・投資・観光、そして私は特に「若者交流」が大事だと思っています。僕らのような世代がこれから何かを話し合うよりも、若いうちにこの地を訪れるような人たちを大切にしていきたいですね。
それから、日本企業の方や投資を検討されている方からの相談も大歓迎です。いつでもお話しさせていただきます。
→今後の日本とダバオの関係発展について、直行便の再開なども期待されていますが、いかがでしょうか。
これは我々総領事館や在留邦人社会だけでなく、ダバオ市にとっても大きな悲願です。
現在、ダバオを訪れる観光客の順位を見ると、1位がアメリカ、2位が中国、そして日本は3位です。ダバオには海も山もあり、ゴルフも手軽に楽しめます。また、コーヒーやカカオ、そして戦前からの日本との深いゆかりの地といった観光資源が豊富にあります。
より多くの日本の方々にダバオへ来ていただくためにも、直行便の実現に向けて、私としてもできる限りの後押しをしていきたいと考えています。
人との向き合い方・コミュニケーション

→異なる文化や立場を持つ人々と関わる際に意識されていることはありますか?
その国の文化やわきまえなければならないマナーは、どこの国にもあります。またその国の慣習や風習を尊重するのは当然のことです。
しかし、そうした表面的な部分を除けば、結局は「人間対人間」なのだと僕は思います。お互いに立場というものはありますが、それを脱ぎ捨てれば1対1の人間同士です。だから、僕は常に「全人格」で向き合うことを大切にしています。
自分をさらけ出さないと、相手も心を開いてくれません。外交の最前線のような場では難しい駆け引きが必要な場面もありますが、日常の業務や交流において、一番大事にしたいのは一人の人間として向き合う、という姿勢です。
→フィリピンの人々と接する中での気づきや学びを教えてください。
フィリピンの方々は、DNAに刷り込まれているのではないかと思うほど、「人を嫌な気分にさせない」ということに長けています。これが才能なのか国民性なのかは分かりませんが、その点において彼らは一流だと感じます。
僕が研修生としてフィリピンを訪れ、各地を旅していた時のことです。今の僕と同じくらいの世代の、お年寄りの方々と接する機会がありました。彼らは間違いなく戦争を経験した世代か、子供時代に親を戦争で亡くすなど、多かれ少なかれ日本による被害を受けている世代です。
しかし僕が日本人だと分かっても嫌な顔をされたことは一度もありません。それどころか、「私は日本語の歌が歌えるんだよ、学校で習ったんだ」と言って、日本語で歌を歌ってくれたりするんです。これには本当に驚きましたし、「これは一体どういうことなんだろう」と考えさせられました。
僕より上の世代で、終戦直後にここへ来た方々は、反日感情が強く、日本人だと名乗ることもままならないような厳しい時代を経験されています。僕が訪れた80年代には状況は変わっていましたが、それでもフィリピンはかつての激戦地です。
過去の歴史を振り返れば、不幸なことばかりだったはずの場所に行くわけですから、僕もそれなりに身構えていました。しかし、実際に出会う人々の中に、そんな顔をする人は一人もいませんでした。
一日本人として、こうした方々がフィリピンにいてくださることに、言葉では言い尽くせないありがたさを感じました。長く携わってきましたが、この「フィリピン人のようになりたい」と思わされるほどの温かさは、一貫して変わらない私の感想です。
ダバオ・ミンダナオの魅力

→ミンダナオの危険度について実際に肌でどう感じていらっしゃいますか?
実は一昨年(2024年)に、前任の石川総領事の時に一度、渡航情報の見直しを行いました。ダバオ地域を含む一部のレベルを下げたのですが、これは日本企業や観光客の方々にとって非常にポジティブに受け止められていると実感しています。
渡航情報の更新において大事なのは、現地の治安状況をきめ細かくフォローし、事実に基づいた情報をタイムリーに発信し続けることです。危ない場所は危ないと責任を持って伝え、過剰に警戒されている場合は調整する。この1年でミンダナオの治安が急激に悪化したという情報もありませんし、むしろ改善に向かっていると感じます。今後も機動的に見直しを行っていきたいです。
もちろん雰囲気や発展の度合いはマニラとは違いますが、僕が以前マニラに住んでいた頃と比べて、基本的な心境の変化はあまりないですね。 街並みや人は違えど、そこに大きな「差」は感じません。
→ミンダナオの魅力は?
ミンダナオにはマニラやセブとはまた違う魅力があります。まだまだ伸びしろがある「これからの街」です。 現地の人々も自分たちの街に誇りを持っていて、「これからもっと良くなっていくんだ」という前向きなエネルギーに溢れています。
ミンダナオの魅力はたくさんありますが、やはり「将来の発展性」を感じます。 まだ未開発の観光資源や天然資源が豊富で、ここは非常に「約束された土地」だと思っています。 ミンダナオが発展することが、フィリピン全体を押し上げる重要な鍵になるでしょう。
ミンダナオには「多面的な顔」があると言われます。一言で言えば「イスラム教の人が多い」というイメージかもしれませんが、実際はミンダナオ全体で約23%ほどで、その多くは西側に集まっています。 一方でダバオはカトリックが中心です。
このように、宗教も違えば、13以上の民族が共生し、言語も多様です。 フィリピン全体の多様性をさらに凝縮したような、「多様性の中の多様性」がここにはあります。 平和が達成され、人・物・金がスムーズに動くようになれば、さらに新しい「顔」が見えてくるはずです。
最後に

→休日やダバオでの生活について伺わせてください。休日はどのように過ごされていますか?
週末は、2013年にマニラから帰国して以来全くやっていなかったゴルフを再開しました。 こちらに来る際に「ゴルフができた方がいい」というアドバイスもあり、今は週に1回、少なくとも2週間に1回はコースに出ています。
→ ダバオでお気に入りの食べ物や習慣はありますか?
「ダバオのコーヒー」は本当においしいと感じます。 毎日欠かさず飲んでいますね。
→日本の若者へ一言お願いします。
今は「VUCA(ブカ)」の時代と言われています。「Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)」
私たちの時代に比べて価値観は多様化し、先行きは見えにくくなっています。 今の時代、変化のスピードが速い中で「対応力」が非常に重要と言われますが、 まさにその通りだと思います。これからの時代、その時々の状況に自分を適応させていく「アジャストする能力」は不可欠です。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのが、「対応する能力」というのは、自分自身がしっかり確立されていないと発揮できないということです。自分がどういう人間で、何を大切にしているかという「芯」がないままでは、ただ周囲に流されているだけになってしまいます。
自分はどういう存在で、人間としてどう生きていきたいのか。かっこいい言葉で言えば「どう社会に貢献したいのか」ということですが、もっとシンプルに「自分は常にこうありたい」「これだけは譲れない」という基準を持つことです。
自分一人でその「芯」を見つけるのは難しいかもしれません。もちろん、一人で考え抜くには限界があります。そんな時に助けになるのが、本であったり、先人たちの言葉、あるいは人生の指針となるような「師」と呼べる人の存在です。
「この人の生き方を手本にしたい」「全人格的にこの人を師匠と仰ぎたい」と思える人が一人でもいれば、それはとても幸せなこと。そうでなくても、部分的にでも尊敬できるポイントを見つけ、学んでいく姿勢が大切です。そのためにも、多様な人と出会い、対話を重ねることが重要なんだと思います。
若い方々には、ぜひ自分の中の「貫きたいもの」を大切に育んでいってほしいです。
→最後に、ダバオやミンダナオ地域で暮らす日本人の皆さんに一言お願いします。
私たちは領事事務所として、常に「頼りになる領事館」を目指しています。在留邦人の皆さんの安全を守ることが最大の使命ではありますが、一方で「同じ日本人同士」として助け合っていくことも非常に重要だと考えています。
日本から遠く離れたこのフィリピン、特にダバオやミンダナオという限られた空間で巡り合ったのは、何かのご縁です。この地で共に生きる仲間として、交流し、支え合える関係を築いていきたいですね。
困ったことや相談したいことがあれば、いつでも遠慮なく領事事務所を頼ってください。この「縁」を大切に、共に歩んでいきましょう。
まとめ
今回は、フィリピン・ダバオで活躍する小野浩隆総領事にインタビューさせていただきました。
外務省での長いキャリアの中で培ってこられた経験や思い、そして総領事としてこれから目指す姿について、率直に語っていただきました。
中でも、若い世代に向けたメッセージは、国際社会の最前線を歩んできたからこそ紡がれる言葉の重みがあり、取材する私自身の胸にも強く響くものでした。勤務地がフィリピンでない時期であっても、この国との関わりを持ち続け、フィリピンを知り尽くした「専門家」として歩み続けてきた小野総領事。その根底にあるのは、外交官として一貫して国益を最優先に考える揺るぎない姿勢です。
同時に、立場や肩書を超えて、全人格で人と向き合い、直接対話を重ねることを何より大切にする。その姿からは、プロフェッショナルとしての覚悟と、人間味あふれる信念が感じられました。ダバオ、そしてミンダナオの地で、小野総領事が積み重ねていく一つひとつの対話が、これからの日比関係を静かに、しかし確実に形づくっていくのだと感じさせられる取材でした。
《この記事を書いた人》
ダバオッチのゆい🚹(20歳)
東京の大学3年生で現在は休学中📚
趣味は小学校から続けているサッカー⚽️
登山・素潜りなどの自然アクティビティ🌿フィリピンの文化・人々に興味を持ち、タガログ語・ビサヤ語を学習中
自分の体験を通じて、ダバオを訪れる人、ダバオに暮らす人に向けて有益な情報を発信していきます!







