【コラム】ダバオとの出会い~ ダバオを初めて訪れたときのことなど~(3)

現在この地は現地の子供が通うミンタル小学校になっているが、その校庭や近くを流れる小川の辺りにも、日本人小学校校舎の基礎などが所々に残されている。これらの基礎は簡単には撤去できないほど丈夫にできているようである。第二次世界大戦中あるいはそれ以前に作られた日本の建造物はとにかく頑丈にできているものが多い。

6年ほど前に京都橘大学のゼミ生たちと、フィリピン同様に激戦の地であったパラオのペリリュー島を訪れたが、そこでは、旧海軍弾薬庫が改築され、今もペリリュー島戦争博物館として活用されているし、旧日本海軍司令部の建物跡はすでにかなりの廃墟であったが、2012年にこの島が大型台風に襲われ、壊滅的な被害を受けた時に、多くの住民が丈夫な建物を求め、ここに逃れ難を免れたと聞いた。これらは軍事施設であったという特殊性があるのであろうが、台湾などに残されている建物を見てもその頑丈さはよくわかる。

戦前のダバオ日本人学校の様子 ダバオは戦前2万人もの日本人が居住し、東南アジア最大の日本人街を形成していた。

ところで、このミンタル小学校の校庭には現在も、「ダバオ開拓の父」と呼ばれた太田恭三郎氏の記念碑が残っている。太田恭三郎の業績やひととなりについて書かれたものは数多い。少し珍しいものとしては、「キング」昭和17年2月(第18巻第2)号の「ダバオ開拓の先駆者―皇軍が敵前上陸、続いて占領したフイリッピンのミンダナオ島に、日本町ダバオを開拓、マニラ麻を今日あらしめた太田恭三郎の奮闘記」(南洋協会拓努省嘱託 永丘智太郎著)を紹介しよう。