【コラム】ダバオとの出会い~ ダバオを初めて訪れたときのことなど~(3)

そこには、「そのころのフィリピンは、侵略国アメリカ人が、こそ泥式のやり口で、まんまと領有した頃で、彼等が先づ着眼したのは、リンガエン湾に近い海抜五千尺のバギオ山上に、山岳都市を建設して避暑地にしようという贅沢な計画だった・・・*1」が、そこに至るベンゲット道路の建設(開墾)のために、明治36年には日本人労働者(ベンゲット移民)1,500人が従事するのであるが、工事終了後の彼らの失業対策の一環として、太田恭一郎が、「ダバオの麻栽培が、将来非常に有望な事業となるであろうということ」に着目し、ダバオでの実情調査を経て、「大いに同胞人の間を説き回って賛同を求め、いよいよ明治37年9月に第一先発隊180人、翌年1月に百余人、同7月に70人の失業して困っていた邦人ベンゲット移民をダバオに送ったのである。そして自分もこの最後の邦人と一緒にダバオ永住の心組みで乗り込んだ。これが為め、一漁村ダバオは、急に賑やかになったわけだった」と記されている。

麻農園 開拓時代

ダバオへの日本人の入植は、1903(明治36)年であるとの記録があるが、太田恭三郎が、1904年9月から翌年7月にかけ同胞の失業救済を意図して、ベンゲット移民をコア集団とした350人ほどの邦人男性をダバオに派遣してから本格化したと言える。「キング」は、1924年に大日本雄弁会講談社(後の講談社)が発行した大衆娯楽雑誌で、戦中はキングが敵性語であるという理由で一時「富士」に改名された時期もあったが、戦後再び「キング」に戻され、1957(昭和27)に廃刊になっている。太田恭三郎は、このような大衆娯楽誌に大きく特集記事が掲載されるような立志伝中の人物であったことが伺える。

*1 当時の歴史的な背景による記述であるため原文どおりに転載した。