こんにちは!ダバオッチのゆいです。
今回は、ダバオで活躍する日本人にインタビューする「YOUは何しにダバオへ?」コーナー第9弾。
お話を伺ったのは、在ダバオ日本国総領事館の在外公館料理人・星田俊介さんです。
星田さんは高校卒業後、日本各地で料理人として腕を磨き、2026年1月より在外公館料理人としてダバオに赴任されました。
インタビューでは、星田さんの生い立ちから、料理人として歩んできた道、そして料理に対する哲学まで、じっくりとお話を伺っています。
また、「在外公館料理人」という謎に包まれた職業についても、分かりやすく紐解いていきます。
料理人と聞くと、職人気質で少し近寄りがたいイメージを持つ方も多いかもしれません。しかし星田さんは、とても気さくで笑顔の絶えない、本当に素敵な方でした。一方で料理の話になると、一転して目の色が変わり、そこには揺るぎない信念を持つ料理人の姿がありました。
そんな星田さんの魅力が詰まったインタビュー、ぜひ最後までご覧ください!
在外公館料理人とは?
在外公館料理人とは、大使館や総領事館などの在外公館で、公的会食の調理を担当し、日本の食文化や日本産食品の魅力を海外に発信する専門職です。
近年、和食の国際的な評価が高まる中、在外公館料理人は「食の外交官」として外交の一翼を担う存在として重要性が増しています。要人への料理提供に加え、日本食文化のPRや日本産食品の理解促進、さらには風評被害対策などにも貢献しています。
令和8年1月から始まった新制度では、在外公館と公的な委託契約を結び、任期の明確化や報酬・生活支援の充実を通じて、料理人が安定してキャリアを形成できる仕組みが整えられました。
参考:外務省公式ウェブサイト「在外公館料理人制度への移行」
星田さんは、令和8年1月に始まった新制度のもとで、在ダバオ日本国総領事館にて在外公館料理人として勤務されています。
今回は星田さんに様々な質問に答えていただきました!
料理との出会い
→星田さんが育った環境について教えてください。
生まれ育ったのは滋賀県、琵琶湖のすぐそばです。家族構成は、父、母、祖母、そして兄弟が3人いて、僕はその真ん中の長男として生まれました。
→子供の頃の食卓や家庭での料理は、どんな存在でしたか?
一番最初に料理をしたのは、祖母から教わった「和風スクランブルエッグ」のようなものでした。自分で作ってみて、卵って火加減一つで硬さが変わったりする、今でも難しい食材だなと思うんですけど、そこに面白さを見出したのが始まりですね。
あとは小学校高学年くらいから、滋賀県なので琵琶湖でブラックバス釣りを始めて、そこから家族に海釣りにも連れて行ってもらうようになりました。昔から魚は生活に当たり前にあるものでしたが、その食べ方をいろいろ知るうちに「自分でも調理してみたい」という気持ちが芽生えました。それらが料理を始めるきっかけ、原点ですね。
→初めての「和風スクランブルエッグ」は何歳の時だったんでしょう?
小学校3年生くらいです。それを覚えてから火を使い始めました。小学生にとって火を使うのはハードルが高いことでしたけど、インスタントラーメンを作ったりしながら徐々に覚えていきました。原始人みたいですけど、当時はそれが楽しかったのを鮮明に覚えています。
→幼少期や学生時代に、特に印象に残っている「食にまつわる記憶」はありますか?
母親が地元の小さなスーパー、魚屋みたいなところで働いていたんです。そこからよく買ってきてもらって家で食べていたのが「アジの一本釣りの刺身」でした。
ある時、それを食べて「この魚、美味しくない」って言っちゃったんですよ。そしたら周りのおじさんに「普段どんな良いもん食べさせてるんだ」って母親が怒られたりして(笑)。小さいながらに、味の違いというのを環境から学んでいたのかなと思います。
料理人を志してから
→将来、料理の道に進もうと意識し始めたのはいつ頃でしたか?
高校を卒業してすぐです。「板前になるぞ」と思って、最初は田舎の川魚料理店で2年ほどお世話になりました。そこから京都へ出て、ホテルの厨房で3年弱ほどお世話になりました。その後は関東の方まで行ったり、修行で温泉地を転々としながら色々な店を経験させてもらいました。
結婚するタイミングで滋賀に戻り、地元の旅館で料理長を経験しました。その後、企業の保養所で7年勤め、今回の(在外公館料理人の)お話をいただいたという流れです。

→高校卒業後、まさに日本中を渡り歩いてこられたわけですが、何か理由はあったのですか?
とにかく「いろんなものが見たい」という思いが強かったんです。「所変われば品変わる」という言葉通り、場所によって扱う食材も料理も全く違います。各地を巡ることで、本当に多くの経験を積むことができました。
→各地の現場を渡り歩いた経験は、今どう活きていますか?
「柔軟性」と「応用力」が身につきましたね。注文を受けたらすぐに出さなければいけない店もあれば、予約のお料理にじっくり向き合う店もある。 それぞれの現場で求められるスピードや質に瞬時に対応する能力は、多くの店を経験したからこそ得られた、私の武器になっています。

→料理の道に進むと決めた際、ご家族や周囲の反応はいかがでしたか?
実は私の家系は代々、土木工事を生業にしている家庭だったんです。だから周囲からは「なんで料理なんだ?」という反応もありました。でも自分にはやりたいことがあると伝え、母は快く送り出してくれました。
→修行時代は、具体的にどのようなステップを歩まれたのでしょうか?
ずっと和食一本でやってきましたが、最初は「洗い場追い回し」からのスタートです。そこから盛り付け、焼き場と、店によって順番は違いますが、徐々にランクを上げていく形です。最終的には一番難しいとされる「煮方(煮物を作るセクション)」まで、10年ほどかけてたどり着きました。 一箇所に留まらず転々としたことで、店ごとの異なるやり方を学べたのは、私にとって大きな強みになったと思っています。
→修行の中で、特に厳しかったことや、今の糧になっていることはありますか?
自分の許容範囲を超える仕事量で、寝る間もない時期がありましたね。夜が明けてしまうこともありました。先輩が先に帰ってしまう中、自分の作業スピードが遅いから終わらない。
悔しい思いもしましたが、常に自分に矢印を向けて「どうすれば早く動けるか」をゲームを組み立てるような感覚で工夫して取り組むようになりました。そうやって効率を追求することで、徐々に自分の時間も作れるようになっていきましたね。
→これまでの料理人生の中で、価値観を大きく変えた出来事・出会いはありますか?
京都のあるお店で、3ヶ月だけ山菜料理の手伝いに入った時のことです。それまでの私は、どこか「作業」として料理をこなしてしまっている部分がありました。 しかしその店で、本当の意味での「手作りの大切さ」を実感したんです。直接お客さんを前にして料理から提供までを行う空間で、お客様と料理が一体となっているような感覚。人生の中で衝撃でしたね。「お客様があっての自分たちなんだ」ということを再認識させられた、大切な出会いでした。

→師匠や先輩から受けた言葉で、心に残っているものはありますか?
前職の支配人からいただいた言葉です。コロナ禍で仕事が全くなかった時期、自分の知識や技術を人に伝える練習をさせられたことがあったんです。自分は人前で喋るのが苦手だったので当時は無茶振りだと思いましたが(笑)。 その時に「1回やってダメでも、100回やればできるようになる」と言葉にしてもらったんです。当たり前のことかもしれませんが、その言葉で「なんだ、何でもできるんだな」とマインドが変わる大きなきっかけになりました。
→感覚的な「味付け」を人に伝えるのは、非常に難しいことですよね。
自分たちの中である程度の割合は作っていますが、最終的には「感覚」の世界になります。 私たちは昔ながらの厳しい修行で覚えてきた世代ですが、今の若い方に同じ教え方はできません。どうすれば伝わるのか、今も正解は見つかっていません。それは私にとって、今もなお大きな課題ですね。
在外公館料理人としてダバオへ
→在外公館料理人という仕事を知ったのはいつ頃、どのようなきっかけでしたか?
22歳くらいの頃です。 先輩が「大使館で働くのが夢だ」と話しているのを聞いて、「あぁ、そんな仕事もあるんだ」と思ったのがきっかけです。 当時は海外に行きたいという気持ちも特になかったのですが、その後、料理の腕が上がるにつれて色々なお店からお話をいただくようになり、その中に海外の話もちらほら混ざるようになってきました。 その時も行ってみたい気持ちはありましたが、言葉の壁を感じ、踏み出せなかったという背景があります。
→試験の勉強についてのエピソードや合格の秘訣を教えてください。
試験内容はもちろんですが、世界的に、そして日本でも重視されている「HACCP(ハサップ)」などの衛生面をかなり意識しました。 コースメニューを作ることは、10年20年と経験があれば、指標を見ながら誰でもできてしまうことだと思っています。
それよりも、食材の運び方や調理前の手洗い、お皿や調理器具の消毒など、誰が見ても「綺麗な仕事をしている」とわかるような動きを意識しました。
当日は 本当に、手が震えるほど緊張しました。 目の前に4人ほど試験官が座り、後ろには関係者の方々、さらにカメラマンも3、4人いて、合計10数人に見守られながら料理をするという、かつてない環境でした。 以前、滋賀県でフグの講師をしていたこともあるのですが、何も知らない人に教えるのと、プロに審査されるのとでは全く緊張感が違いましたね。 過去一番の緊張でした。

→試験には語学力も含まれるのでしょうか?
特には問われませんでした。 「喋れないなら喋れないなりに、徐々に覚えていってもらえればいい」というスタンスだったようです。
→赴任先としてダバオを希望されたのですか?
実はダバオに知り合いがいたこともあり、第一希望で出させていただきました。 日本でフィリピンの方と一緒に仕事をした経験が何度かあり、彼らがとてもフレンドリーで好印象を持っていたことも理由の一つです。
また、ダバオはドゥテルテ元大統領の出身地で、フィリピンの中でも治安が良く平和だということも調べて知りました。加えて、 海が綺麗だという点も魅力的でした。
実は、ダバオともう一つの在外公館からオファーをいただいたのですが、ダバオの方が楽しそうだと感じて最終的にこちらに決めました。

→公邸料理人としての合格通知を受けた際、どのようなお気持ちでしたか?
正直、「やっていけるのか」という不安と、合格した嬉しさが半分半分でした。特に私には家族がいるので、離ればなれになる寂しさも複雑な心境としてありました。しかし、家族に背中を押してもらった分、「頑張らなければ」というやる気に変わりました。
→日本に残してきたご家族とはどのようにお話しされていますか?
妻は寂しがっていますが、子供は少しずつ慣れてきたみたいです。今はテレビ電話でいつでも顔が見られますしね。任期の間には1ヶ月ほどのリフレッシュ休暇もいただけるので、その時に日本へ帰って家族との時間を大切にしたいと思っています。
→合格から赴任まで、かなりスピーディーだったと伺っています。
合格から約2ヶ月でトントン拍子に進みました。海外経験は一度韓国に旅行した程度で、飛行機の乗り方も言葉もわからない状態でしたが、周囲の厚いサポートのおかげで今ここに立てています。
→赴任して間もないとのことですが、現在はどのようなお仕事をされていますか?
まだ会食が本格的に始まっていないため、先週からは主に市場の視察に時間を割いています。どこの鮮度が良いか、どんな魚が売られているかを自分の目で確かめ、今後の献立を組み立てているところです。
僕はいつもバンケロハンより「アグダオ市場」で買い物をします。あっちの方が少し小綺麗ですし、毎日魚突きで獲ってきたばかりの、目が生き生きとした新鮮な魚が並んでいるところがあるんです。

→視察はどなたかと行かれているのですか?
フィリピン人のドライバーに同行してもらっています。毎日鮮度を確認したいとあちこち回るので、彼には「毎日何をしに行っているんだ」と思われているかもしれませんが、納得のいく食材選びのために続けています。
→市場の視察などで、特に気をつけていることや意識していることはありますか?
まずは鮮度です。それから大きさ。会食など、使う料理に対しての人数や、どんな魚があるかという種類、そして買う量も意識しています。 あとは……当たり前のことかもしれませんが、市場では水を踏まないように気をつけていますね(笑)。
→ダバオならではの海鮮もあったりするのでしょうか?
バングースですね。こっちではあまり生で食べないようですが、この間、試しにバングスのお刺身を食べてみたんです。そうしたら、全然食べられるし、旨味もありました。 お腹のあたりに脂がのっているイメージですが、白身の部分は割とあっさりしていて食べやすかったです。
あとは「オポット」という食材に興味があります。まだ食べてはいないのですが、見た目が「もずく」のようで。どんな味になるのか、そのうち試してみたいですね。ダバオには色々な種類の海鮮があり困ることはなさそうです。

→実際にダバオに来てみて、街の印象はいかがですか?
住んでいる家の周りがずっと賑やかなことですね。「ズンチャカ、ズンチャカ」と音が鳴り止まなかったり、ジプニーのクラクションが響いていたり。自分の中では「眠らない街」という印象が強いです。
私は滋賀の田舎出身なので、夜は静まり返るのが当たり前だったんです。だから余計にそう感じるのかもしれません。
ダバオ×在外公館料理人という仕事
→ダバオで初の舞台であった新年祝賀レセプションで、特に印象に残っている料理はありますか?
やっぱり「レチョン(豚の丸焼き)」ですね。豚の顔がドン!と盛り付けられていて、日本ではまず見られない光景に目を奪われました。食べてみると皮がパリパリで、想像以上にたくさん食べられる美味しさでした。ソースを付けるより、そのまま食べるのが日本人の口には合うかもしれませんね。

→フィリピン料理全般の印象はいかがでしょうか。
味は濃いめですが、私はエスニックが好きなので口に合います。最近食べた「ピナクベット(ナスなどの野菜の炒め煮)」は、海老の塩辛のような隠し味が効いていて、ビールに最高でした。野菜もたくさん摂れるし、日本人の口に合う料理が多いと感じています。……ただ、「バロット(孵化直前のアヒルのゆで卵)」だけは、まだ怖くて挑戦できていません(笑)。
→現地で日本料理を作る上で、苦労されていることは?
一番は「調味料」ですね。手に入る種類が限られているので、選択肢が少ないのが悩みです。和牛もなかなか売っていなくて、ようやく一軒見つけたところです。野菜は夏野菜に近いものが多くて何とかなるのですが。やっぱり仕入れの部分に難しさを感じています。
→調味料は、やはり日本産にこだわりますか?
そうですね。私たちの世界では、メーカーごとの味が「基本」になってしまっているので、違うものを使うと味が全く変わってしまうんです。お客様に失礼があってはいけないので、現時点ではまだ日本のものを使いたいと思っています。ゆくゆくは現地のものを試行錯誤して取り入れていければと思っています。
→スタッフや現地の方とのコミュニケーションはどうされていますか?
英語を勉強中ですが、聞き取れないことも多くて……正直、翻訳アプリに頼り切りです(笑)。
市場での買い出しなどは、英語・ビサヤ語ができるドライバーさんに助けてもらって、なんとか意思疎通を図っています。
→ミンダナオ島はムスリムの方も多いですが、献立作りで意識していることは?
アルコールや豚肉がNGという宗教上のルールは、確実に把握して対応しなければなりません。同じ空間で調理するのもNGという方もいらっしゃるので、今後はムスリムの方が来られる際は、豚を一切使わないなどの徹底した配慮をしていきたいと考えています。
→日本酒ソムリエ(唎酒師)の資格もお持ちだとか。
実は、資格を維持するための会費を払うのを忘れていて、今は「元・唎酒師」なんです(笑)。でも知識はあります。3月には日本酒のペアリングの会も予定しているので、フィリピンの方や在外邦人の方に、日本酒の美味しさを新たに知ってもらうきっかけを作っていきたいですね。
星田さんにとって料理とは?
→長年料理と向き合ってこられた中で、ご自身にとって「料理」とはどのような存在ですか?
一言で言えば「人生」そのものですね。
喜びもあれば悲しみもあり、楽しさもありました。試行錯誤して自分の味を作り、ある人には美味しいと言われ、ダメだと言われれば改善する。その繰り返しが、私が生きてきた足跡そのものだと思っています。自分の料理はまだ完成形ではありません。異国の地で新たに何を学べるか。それをしっかり形にしていきたいと思っています。
→これまでの長いキャリアの中で、料理を辞めたくなったことはありませんか?
何度もありますよ。嫌になって逃げ出したこともありますし、仕事に行かなかったこともあります。特に京都での修行時代などは、プレッシャーもすごかったですから。
それでも続けてこられたのは結局、料理を作るのが好きなんです。料理は「自分自身と向き合う仕事」だと思っていて、その感覚が自分には合っていると感じます。辛い時期もありましたが、振り返ってみれば、やっぱり作ることが好きだという、その一点に尽きますね。
→料理を通じて、一番伝えたいことは何ですか?
「美味しいものを食べると幸せになれるんだよ」ということです。今の時代、毎日同じものを機械的に食べて、食事を楽しみとして捉えていない人も増えているように感じます。
フィリピンの方はとても陽気ですが、一方で日本人は美味しいものを食べても反応が薄いこともありますよね。でも、いろんな食材を、いろんな食べ方で楽しむことは、間違いなく人生を豊かにします。 安くて美味しい食べ方はいくらでもあります。それを発信していきたいという思いがあって、実はYouTubeをやろうかと考えたこともありました(笑)。恥ずかしがり屋なので実現していませんが、このダバオでの活動を通じて、食の幸せを伝えていければと思っています。
ダバオでのこれから
→ダバオでの任期の間に、今後特に挑戦したいことはありますか?
これ自体が挑戦なので、まずは日々頑張ることです。 また、私のこれからの課題は、フィリピンの味とどう向き合い、自分の和食の技術をどうミックスさせて、現地の方に受け入れられる料理を作っていくかだと思っています。
→現地の人々に日本料理をどのように伝えていきたいですか?
日本料理の美味しさを伝えるのはもちろんの事、料理の出し方も食べ方も異なる地で伝え方も手探り中です。
特に直近の3月に予定している日本酒のペアリング会には力を入れたいですね。フィリピンの方は食事中にお酒を飲む習慣があまりないそうなので、和食と日本酒を一緒に楽しむスタイルを、まずは知ってもらいたいんです。
懐石料理のような難しい理屈ではなく、純粋に「飲んで、食べて、楽しむ」という日本ならではの食文化を、ダバオの方々に伝えていければと思っています。
→将来的に、料理人としてどのような道を歩んでいきたいと考えていますか?
しばらくは「在外公館料理人」として、いくつかの国を渡り歩きたいと考えています。場所が変われば食材も限られます。「芋しかない」というような過酷な環境もあると聞きました。そんな土地で、自分に何ができるのか。そんな経験を通して、さらに自分の応用力をさらに磨いていきたいです。
→その先に見据えているゴールはありますか?
いずれは自分の店を持ちたい、という夢を持っています。日本だけに留まると自分の世界が小さくまとまってしまう気がして。世界中で「自然が教えてくれる食材の扱い方」を学び、しっかりとお金を貯めてから、自分の城を構えたいです。
→最後に、海外を目指す若い世代の料理人へメッセージをお願いします。
「なんとかなるから、思い切り頑張れ!」と伝えたいです。私が料理の世界で接してきた若い子の中には、「自分なんて…」と最初から諦めてしまう子が多かったんです。でも、そんなふうに思わずに、まずはやってみることが大切です。
自分の可能性を信じて、怒られることも恐れずに突き進んでほしい。今の時代だからこそ、がむしゃらに頑張る若い子は、周りの先輩たちもきっと可愛がって助けてくれるはずです。自分の可能性を、自分自身で潰さないでほしいです。
まとめ
今回は在ダバオ日本国総領事館で在外公館料理人として勤務されている星田さんにインタビューをさせていただきました。
「料理を通して幸せになれる」というメッセージを、日本だけでなく世界に向けて発信し続ける姿勢、そしてどこまでも料理人としての高みを追求し続ける姿に、強く心を打たれました。
インタビュー中も終始笑顔を絶やさず、穏やかな語り口で一つひとつの言葉を丁寧に紡ぐ星田さん。しかし、料理の話になると一転し、その眼差しからは揺るぎない覚悟と情熱が伝わってきます。
「料理は自分の人生そのもの」という言葉は、決して大げさではなく、これまで歩んできた道のりと、これからも続いていく料理人としての生き方そのものを表しているように感じました。
《この記事を書いた人》
ダバオッチのゆい🚹(20歳)
東京の大学3年生で現在は休学中📚
趣味は小学校から続けているサッカー⚽️
登山・素潜りなどの自然アクティビティ🌿フィリピンの文化・人々に興味を持ち、タガログ語・ビサヤ語を学習中
自分の体験を通じて、ダバオを訪れる人、ダバオに暮らす人に向けて有益な情報を発信していきます!






