谷口 知司(たにぐち ともじ)
1955年生まれ。元京都橘大学現代ビジネス学部ならびに同大学院文化政策学研究科教授。
東北大学大学院教育情報学教育部博士前期課程修了 博士(文化政策学)専門 観光学、文化情報学。
初めてダバオを訪問した時からそのポテンシャルを感じ、ダバオ観光の発展を願っているダバオファン。ダバオッチ創設者ハセガワ氏は彼がまだNGOに勤めていた頃からの友人である。
主要著作に、『ひろがる観光のフィールド』(共編著、晃洋書房、2020年)、『これからの観光を考える』(共編著、晃洋書房、2017年)、『デジタルアーカイブの資料基盤と開発技法』(共編著、晃洋書房、2016年)など。
(前回の記事はこちら)「フィリピン日本歴史博物館」を後にした私たちが次に向かったのが、ミンタルの日本人小学校跡である。ミンタルは日本人が、ダバオ郊外に日本人町を造ったところで、この地名は日本語に由来し、「民が多くとどまるように」との願いから民多留(ミンタル)と名付けられたという。私の手持ちの太平洋戦争直前の資料(昭和14年度「各学校一覧 附 職員録」ダバオ教育会)によると当時ダバオ周辺には12の日本人小学校(ダバオ、ミンタル、カリナンの3校には高等科が設置されている)があり、12校で1899人(男1009人、女890人)が在籍していた。
1924年(大正13)に設立されたミンタル校の校長兼訓導は、昭和13年に赴任した長野師範出身の矢澤挙雄であり、英専(英語専門教員だろう)の2人のフィリピン人を含め11人の教員が所属し、尋常小学校1年生から高等科2年生までで、296人(男154人、女138人)が在籍していた。なお、天野洋一『ダバオ国の末裔たち-フィリピン日系棄民』1990,風媒社,P64、には「1937年(昭和12)までに・・・13の日本人小学校がもうけられたのだった」との記載があるが、私の資料には、そこに記された東サランの小学校の記載がない。また、三宅一道氏も同行したブラジリア大学の根川幸男氏の調査(14 April 2011)ではスバスタにも日本人学校があったという記載がある。)