【コラム】ダバオのネオンはノスタルジーの香り、粋なファンドレイジングに心をつかまれた夜

裸電球

猪俣典弘(いのまた のりひろ)
1969年生まれ、横浜市出身。Asia Social Institute司牧社会学修士。
在学中フィリピンの農村、漁村にて、上総(かずさ)堀りという日本の掘り抜き井戸の工法を用いて現地NGOと共同で井戸掘りを行う。大学卒業後、海外、日本のNGOより旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣され、現地勤務を経験。2005年から認定NPO法人フィリピン日系リーガルサポートセンターで太平洋戦争によって離別、死別を余儀なくされた日本人2世の親族探し、国籍回復支援している。2011年から日比NGOネットワーク運営委員副代表。ダバオッチ創設者のハセガワ氏とは同志であり、10数年来の飲み仲間。


 

こんなコロナ禍が世界に広がる前は、足しげくダバオに出張し、訪れるたびに新しいビルが増え、モールが建ち、新たなスポットが出現して賑やかな都市へと進化していくさまを目の当たりにしてきた。が、ぼくが初めてダバオに訪れた2005年当時は、マニラの不夜城、エルミタなどと比較すると、ちょっと寂しい田舎町といった風情だった。ひとりで出張しているぼくは、週末になるとヒマを持て余し、サウナに出かけたりしていた。

サウナのボーイさんに、夜遊びができる場所(といっても、ビールが飲めてカラオケがあるような店のこと)はないかと尋ねると、「サー、それなら、ここからタクシーで暗い道を進んだところに、いい店がありやすぜ」と教えてくれた。それは行ってみなければとノコノコと出かけていったところ、果たしてボーイさんの説明通り、暗闇の中から小さな明かりが見えてきた。

当時のダバオ市上空
大きなビルなどは少ない

店内に入ってみると、右側は怪しげなマッサージパーラーで、左側はカラオケパブになっていた。初心者のぼくが選ぶのは、もちろん左側。少々緊張しながら扉を押すと、大音量の音楽が流れてきた。出迎えてくれたのは、スキンヘッドで明らかにゲイのマネージャー。彼が優しくぼくを席へと案内してくれる。爆音BGMにDJブースもあり、ちょっとしたショータイムもあるようだ。

日本へ出稼ぎに行ったことがあるというベテランダンサーがぼくに話しかけてきた。ビサヤ語を教わりながらサンミゲルビールを飲んでいると、あっという間に閉店時間がきてしまった。テーブルについてくれていた女の子が「これから彼氏と飲みに出かけるけど、一緒に来る?」と誘ってくれる。今日は土曜日、明日は休みだ。断る理由もなかった。