こんにちは。ダバオッチの三宅一道(ミヤケイチドウ)がダバオで活躍する人や気になる人に会いにいく企画、「三宅一道、ダバオ人をウォッチ」の第二回です。 今回のゲストは、フィリピン全国で広範囲に渡って多くの農業プロジェクトを手がけるNGO「Freedom Inc.」の代表、アントニオ・ペラルタ(Antonio Peralta)さん。ニックネーム:トニーさんにお越しいただきました。
三宅:ありがとうございます。いつも通りトニーさん、と呼んでもいいですか?
ニヤリとしろと言われて素敵な笑顔を見せるペラルタ氏
ペラルタ:こういう場合は日本ではどっちがカッコイイの?
三宅:うーん、インタビューっぽいのは、やはり苗字で呼ぶ感じですね。
ペラルタ:じゃあ、それで。(笑)
三宅:あのー、やっぱりめんどくさいので、後で編集するでいいですかね。
ペラルタ:このやり取りってレコーディングするんですか?
三宅:あ、言い忘れてましたが、もうしてます。
ペラルタ:えっ・・・(笑)。ではここからということで。
三宅:はい、ここからということで。どうせ編集でなんでもできるし(笑)。
ペラルタ:あ、なるほど、じゃ何やってもOKってことですね。それでは突然ですが、今日は三宅さんのためにスペシャルドリンクを用意したので飲んでください。これです。このタバスコが世界最高のテイストなんですよ。飲んだことあります?
三宅:いや、ないです・・・。
ペラルタ:では是非!農作物加工の真髄を味わっていただきたくて。
突然タバスコを三宅にふるまうペラルタ氏(下記に続く)
あらゆる制限から農民を自由にする
三宅:さて、まずはトニーさんの運営されている「Freedom Inc.」について、簡単に教えてください。なぜ『フリーダム』という名前にしたのですか?
ペラルタ:「FREEDOM」は、Foundation for Rural Enterprise and Ecology Development Of Mindanao(ミンダナオ地域企業エコロジー開発基盤) の頭文字をとったものなんですが、貧困や、技術、マーケティング、生活などに関するあらゆる制限から農民を自由にするという意味を込めて名付けました。
三宅:素晴らしいコンセプトですね。最後のMはミンダナオの「M」ということですが、ミンダナオではどんな活動をされているんですか?
ペラルタ:ミンダナオだけでなく今はフィリピン全土でやっているのですが、ひとことで言えば、農業改良普及事業ということになります。通常、農業改良普及事業と言う場合、農民へのトレーニングや、プロジェクトの実施、例えばデモ農園の設置、農民に農園管理の方法を教えたり、農園の生産プランをつくる、ということが中心になりますが、私達の場合はそのための研究も必要だと思ったので、研究チームを持ち、リサーチプロジェクトもやっています。
三宅:なるほど。では、そもそもなぜ農業NGOを立ち上げようと思ったのか。どういうビジョンで、何をやるためにFreedomの立ち上げたのですか?
ペラルタ:それを話すには私がFreedom立ち上げ前にしていたことを話す必要があります。ちょっと長くなりますがいいですか?
三宅: むしろその辺を詳しくお聞きしたいです。トニーさんの半生を、大学を出てから今までのストーリーというか、これまで何をしてきたのか、という感じで。
ペラルタ:では大学を出たあたりから話しましょう。大学卒業後、まず初めに2年間ほど会計監査の会社で会計士をしていたんです。それから、フィリピンの投資銀行に3年半くらい勤務して、投資の仕事を学びました。さらに1984年~88年まで、ASEAN 6カ国が出資して建てられたシンガポールの地域投資銀行『ASEAN FINANCIAL CORPORATION(現在りそな銀行子会社)』に移って、銀行マンとして越境取引、貿易、ジョイントベンチャーなどの分野で、ASEANの国々のビジネス協力関係をつくっていく仕事をしました。非常に学びの多い、良い経験になりましたね。主にシンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイ地域の協力関係を、民間ビジネスセクターを通じて構築するということをやっていました。
何かジェスチャーしろ、に応える気さくなペラルタ氏
三宅:具体的にはどのようなプロジェクトを手がけていたのですか?
ペラルタ:主に製造業と農業系の投資プロジェクトです。例えば、近場で言うと、ミンダナオの北部にブトゥアンという地域がありますよね。ダバオからブトゥアンに行く途中にパームオイルの巨大農園があります。そこのパームオイルビジネスの融資は私が最初に手がけた案件のひとつです。ガスリー(Guthrie)という多国籍企業の案件で、私は当時はシンガポールに住んでいたのですが、フィリピンへの融資も多数行いました。そんな感じで、シンガポールで5年間くらい働いたのですが、28歳の時にコラソン・アキノ大統領下で新政権のチームに招聘されたのでマニラに戻ることにしたんです。
三宅:おおお!28歳で大統領のチームに!すごい!モテそう(笑)。
ペラルタ:そこには触れませんが(笑)、私が農業省に配置されたとき、ちょうど農務長官をしていたのが、現ドゥテルテ政権下の財務長官カルロス・ドミンゲス氏でした。ドミンゲス氏の下で行ったのは『フィリピン開発銀行(PDB)』の財源強化です。
三宅:さーっぱり分からないので資料(ウィキペディア)を見てるんですが(笑)、1987年にアキノ大統領が農民の自立育成を目標として、包括的農地改革プログラムを発表したとなっていますよね。それと関係があるのでしょうか。
ワイングラスにタバスコを注ぎ最高の味をレクチャーするペラルタ氏
ペラルタ:農地改革プログラムの財源の一端を担うのがフィリピン開発銀行だったのです。財源強化のためには強力な融資先が必要で、ビール酒造のサンミゲル社や、海運産業、セメント業者、大規模農業プロジェクト、製造業など、多くの融資先を開拓しました。その後、88年に政府から穀類保険機構(Grains Insurance Agency Coorporation)の代表に任命されました。ここで行ったのは農民や農業組合に対して保険サービスを提供するというプロジェクトです。例えば台風などで農産物が打撃を受けた場合に適用される損害補償のようなものですね。
三宅:そこで更に農家の方々との繋がりが深まっていくわけですね。
ペラルタ:まさにその通りで、これが私にとっては、現地の農家と直接関わりを持つ初めてのプロジェクトになりました。それこそフィリピン中を飛び回って農地を周りました。その経験を買われて、1990年から95年までUSAID(アメリカ合衆国国際開発庁)の農業系プロジェクトに関わることになりました。その間にまた大統領府に招聘されることになり、ラモス大統領下でミンダナオ問題、南ミンダナオ経済のアドバイザーに任命されて、東アセアン成長地域(BIMP-EAGA)の設立にも参加しました。
ミンダナオには大きな課題があったのでやるしかなかった
三宅:東アセアン成長地域(BIMP-EAGA)とはどういうコンセプトなのでしょうか。
話しているふりをさせられるペラルタ氏
ペラルタ:東アセアン成長地域というのは、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンの四カ国の、特定の地域の経済交流を促進するためにつくられた、経済連携基盤です。地図を見てもらえば分かりやすいんですが、ミンダナオはフィリピンの他の地域よりブルネイ、インドネシア、マレーシアに近いので、直接貿易が行いやすいんです。輸送費も格段に安い。もともとミンダナオ島にはインドネシアの人たちが行き来していましたし、各国との人の流れ、物流、貿易の自由化促進が大きな目標でした。
三宅:USAIDの方と掛け持ちするには相当大変そうですね。
ペラルタ:さすがに大統領に呼ばれると断りにくい(笑)。いや、冗談ではなく、当時のミンダナオの農業には大きな課題があったのでやるしかなかったんです。三宅さんはミンダナオに初めて来たのはいつごろでしたっけ?
三宅:2001年の末ごろです。
ぺラルタ:そのころにはもう改善されていたと思いますが、ミンダナオは長い間放置されてきて何も進歩がない状態だったんです。ミンダナオでは相当な量の農作物が生産されていたにも関わらず、90年ごろでもまだ、ほとんど原料・原型のまま輸出されていたんですね。加工する気が全然ない、付加価値ゼロの状態。そのため、当時の第一の課題は投資家を誘致してこの地で商品を製造できるかということでした。2つ目は、ミンダナオ開発のプランが全くなかったこと。それらを解決するためにミンダナオ経済開発協議会(MEDCO)の立ち上げにも協力しました。MEDCOは現在はミンダナオ開発局(MINDA)として知られています。
三宅:ミンダナオ開発局は私でも知ってます(笑)。それらのプロジェクトで、これは大成功だったな、というものはありますか?
ゲリラの組織図を会社の組織図に変える
ペラルタ:プロジェクトというよりも、ミンダナオ島が、マレーシア、インドネシア、ブルネイとの経済協力関係を『東アジア成長地域』の枠組みで構築できたのが一番大きかったと思います。最初のプロジェクトはジェネラル・サントス市を中心にした南西ミンダナオ地区で行ったのですが、これが成功したので、ラモス大統領から「同じモデルを他のミンダナオ地区に移植しろ」とお達しが来たわけです。他の地域というのは、ザンボアンガ、ダバオ、ブトゥアン、カガヤンデオロ、コタバト市などですね。ちなみに分かりやすいので説明すると、資金はUSAIDが提供しているという構図です。ミンダナオの競争力を上げるために、例えばインフラに関しては、マーケットから農場への道路、橋、収穫後の収納倉庫の整備から、飛行場や貿易港のデザインに至るまであらゆる分野に資金介入していました。当時ミンダナオに割り当てられていた国家予算は15%程度と非常に低かったのですが、こういった活動が功を奏し、ラモス大統領の時に30%になり、その後徐々に上がっていくことになります。
三宅:同様のスキームはミンダナオ以外にも適用されたのですか?
ペラルタ:プロジェクトは異なりますが、当時私はフィリピン北西部成長計画(Northwestern Growth Quadrangle)のリーダーも兼任していて、そこでのプロジェクトはフィリピン北部の開発計画の基盤となったりしたので、スキーム自体は全国的に適用されていったと言えると思います。そういった活動の結果、95年に、当時のアジア圏では最大規模のUSAID支援プログラムとなっった『GME(Growth with Equity in Mindanao Program』の副主任に任命されました。96年にフィリピン政府とモロ民族解放戦線(MNLF)との和平合意が成立するのですが、そのプロジェクト下で私達のチームは、元ゲリラだった人たちの生活支援プロジェクトの設計も行ったんです。実際にゲリラの総本部に行って、ゲリラ組織図の前の立って、これを企業の組織図に変えようという話をしましたね。
三宅:やばいっ、かっこよすぎる!(笑)。そのプロジェクトにはいつごろまで関わったのですか?
ペラルタ:98年にラモス大統領が退任して、私も同年USAIDのプログラムを離れました。ちょうどその時に、オーストラリア政府から貿易関連の仕事のオファーをもらったのですが、彼らの狙いはオーストラリア北部と東アセアン成長地域(BIMP-EAGA)の貿易促進だったのです。当時オーストラリア政府は、オーストラリアからも近いEAGA地区に目をつけており、詳しい人材を探していたんですね。それに抜擢された、という経緯です。なので、アメリカはさらにその後です。
三宅:なるほど。アセアンから、オーストラリア、そしてアメリカですか。どんどん広がりますね。アメリカではどのような活動をされていたのですか?
ペラルタ:2001年にアメリカに移ったのですが、初めは独立コンサルとして、中小企業向けにコンサルティングをしていました。当時アジア進出しようという動きが盛んになってきいて、マレーシア、フィリピン、オーストラリアの支社立ち上げなどを手伝ったり。その後はシティ・ナショナル・バンクに移ってまた銀行マンをやったのですが、結局10年近くアメリカにいましたね。
三宅:10年経って、なぜフィリピンに戻ってこようと思ったのですか?
農村を何とかしなければという強い思いが湧いた
乾杯して一気にワインを飲むペラルタ氏と、タバスコを飲む三宅
ペラルタ:2008年にリーマンショックが起こって、色々考え直しました(笑)。で、一度フィリピンに戻った時に、ミンダナオが10年前とほとんど変わっていないなとショックを受けたんです。農村をなんとかしなければ強い思いが湧いて・・・。まだまだやり残したことがあるんじゃないかと。その中で、自分がやってきたことで一番価値を感じたのは、農民と共にミンダナオ経済開発に関われた経験だったので、今度は非政府組織として、農業事業をやろうと思ったのです。
三宅:それがFreedom Inc.の設立となるのですね。コアメンバーはどうやって集めたのですか?
ペラルタ:中核となったメンバーはUSAIDでやっていた時代に農業系プロジェクトでパートナーとして協力してくれた人たちでした。でも最初はオフィスもありませんでした。創立メンバーと、インターネットカフェに集まって色々協議しながら、計画を立てていきましたね。貿易産業省の農業プロジェクトをいくつか受託したところから具体的な動きが始まりました。
三宅:今では農地改革省(DAR)への最大のサービス・プロバイダーですものね。これまでの、Freedom Inc.の最大の功績と言えるものは何でしょうか。
ペラルタ:そうですね、ちょっと説明しにくいのですが、貧困農村コミュニティーに対して、気候変動対策の教育ができたことかもしれません。Freedomは元々、少数民族や農村コミュニティーの貧困解決や、栄養改善、教育にも取り組んできました。以前なら、例えば干ばつが起きたら終わり、「もう何もできないので飢えるしかない」、という発想だったのですが、現在では、貯水池をつくっておいて将来に備えよう、とかそういうことを、農民組織が考えられるようになりました。それから、農村の農業自体のキャパシティを上げる教育ができたことも大きいですね。原料から、市場、消費者に製品が届くまでにどう価値が上がっていくか、バリューチェーンという考え方を農村に導入したんです。今ではパッケージを自分たちで行って付加価値をつけたり、肥料を独自につくってコストを下げたりということを行っています。
三宅:それらの活動で実際に農家の方々の生活は向上しているでしょうか。
ペラルタ:だいぶ変わったと思いますよ。一度、実際に見てもらいたいですね。北ラナオ州にカパタガンという地域があって、そこは劇的に変わりました。近いうちに一緒に行きましょう。
三宅:ぜひ、誘ってください。ではトニーさん、最後に「ペラルタさん流の成功の秘訣」、のようなものがあればぜひ教えてもらいたいです。
ペラルタ:成功の秘訣は、そうですね・・・。プロジェクトの立ち上げを長くやってきたので、どうすればプロジェクトが形になるかというのはなんとなく分かります。ひとことで言うと、成功するプロジェクトは「映画」みたいなものなんです。脚本を書いて、登場人物が役割を演じる。できるだけ細かい所まで計画する。たとえば私と三宅さんがカパタガンの現地に視察に行くと、農民は「トニーが日本の企業の人を連れてきた」という認識になるでしょう。それをどう次の動きに利用するか、というようなこともイメージして脚本を書いていくんです。なぜそういう考え方になるかというと、農業は気象という、予測不能、コントロール不可能なことに影響されるので、他の全てを計画的に行う必要があるんです。
三宅:なるほど。とても勉強になりました。本日はどうもありがとうございます。
撃沈する三宅と爆笑するペラルタ氏
アントニオ・ペラルタ氏 略歴
1977年
アテネオ・デ・ダバオ大学 商業科卒1982年
アテネオ・デ・マニラ大学 MBA1984年
ASEAN Finance Corporation 銀行1985年
アジア太平洋大学 経営経済学修士1988年
フィリピン開発銀行(Institutional Banking Group 副局長)
同行最年少でシニア銀行員に昇進1988年
穀物保険機構 所長、ジェネラルマネージャー1990年
USAID(Ernst & Young’s International Management Project Group)1992年
大統領府南フィリピン地区経済アドバイザー1995年
Growth with Equity in Mindanao Program,Equity of Mindanao(USAID)1998年
オーストラリア(ノーザンテリトリー)アジア・貿易省シニア・アドバイザー2001年~2008年
渡米、金融、IT、中書企業コンサルタントなどの業界を渡り歩く2009年
Freedom Inc.設立