日下 渉(くさか わたる)
1977年生まれ。東京外国語大学 総合国際学研究院 教授。(https://wp.tufs.ac.jp/wataru-kusaka/)
専門はフィリピン地域研究と政治学だが、文化人類学のファンでもある。気持ちは日本で出稼ぎ中のフィリピン人海外移住労働者。
主な著書に、『反市民の政治学−フィリピンの民主主義と道徳』(法政大学出版会、2013年)、『フィリピンを知るための64章』(共編著、明石書店、2016年)、Moral Politics in the Philippines: Inequality, Democracy and the Urban Poor(National University of Singapore Press and Kyoto University Press, 2017)、『東南アジアと「LGBT」の政治−性的少数者をめぐって何が争われているのか』(共編著、明石書店、2021年)、『現代フィリピンの地殻変動−新自由主義の深化・政治制度の近代化・親密性の歪み』(共編著、花伝社、2023年)など。
マルコス政権の文脈
2016年以降の大統領選挙では、経済成長で台頭してきた下位中間層の希望と不満が重要な役割を果たしてきた。彼らは、強いリーダーが自由の過剰と混乱と規制し、フィリピンを刷新させるというドゥテルテ家やマルコス家の約束に共鳴した。
2022年選挙では、フェルディナンド・マルコスJr.とサラ・ドゥテルテが連携し、正副大統領に当選した。世論調査で一番人気だったサラは、大統領候補の座をマルコスに譲る見返りに、2028年大統領選挙での協力と、父ロドリゴ・ドゥテルテ前大統領に対する国内外からの訴追の阻止を求めたはずだ。
この連携を調整したのは、大統領の実姉アイミー・マルコスとグロリア・マカパガル・アロヨ元大統領である。彼女たちは、マルコス政権とサラ政権の計12年にわたって、影の宰相として権力をふるおうとしたようだ。
しかし、大統領の従兄マーティン・ロムアルデス下院議長は、次期大統領選挙への野心から、この紳士協定を無視し、ドゥテルテ家への攻撃を強化してきた。ロムアルデスは、下院議長として資金力と組織力で秀でるものの、国民的人気という点ではサラにかなわない。
それゆえ、2025年5月の中間選挙で、下院だけでなく上院でも多数派を形成し、弾劾裁判でサラを公職から追放しようとした。
だが、前大統領の逮捕とICCによる拘束の断行は、ドゥテルテ派への同情票を活性化させる悪手となった。マルコス派から寝返りも含めてドゥテルテ派の上院議員が5名当選するなどして、ロムアルデスによるサラの弾劾も頓挫した。

巨大汚職の構造
2025年7月23日から24日、マニラ首都圏各地で大雨に伴う大規模な冠水が発生した。
28日、パンフィロ・ラクソン上院議員が、公共事業道路省の洪水対策事業において、2兆ペソ(約5兆円)の予算のうち半分が汚職で失われている可能性があると批判した。
そしてマルコス大統領は、翌日の施政方針演説で、過去3年間で総額5,450億ペソを超える9,855件の洪水対策事業の多くに不備があったと指摘し、実態の解明を約束した。
追求が強まるなか、9月以降、多くの関係者が、保身、責任転嫁、政治取引など様々な意図をもって情報提供を始めた。
公共事業道路省からは複数の技官とロベルト・ベルナルド次官が、事業社側からはディスカヤ夫妻が、腐敗への関与について証言した。この夫妻は9つの事業者を経営し、前ドゥテルテ政権のもとで、300億から800億ペソ規模の洪水対策事業の契約を獲得し、マルコス政権の下でも300億ペソの洪水対策事情を請け負ったとされる。
証言の結果、洪水対策事業をめぐって、事業者、政治家、役人の共謀により、過剰請求、架空工事、手抜き工事、予算挿入と政治家への裏金(通常は事業費の20~25%)などが横行してきたことが判明した。また、多数の国会議員の関与のもと、洪水対策予算の2割が15事業者に集中し、少なくとも421件の事業で実際には工事が行われず、数千億ペソの損失が出ていることも分かった。
洪水対策事業は、年に一兆ペソ規模と高額である一方、予算は地域ごとに分割されている。政治家らはそこに付け込んで、親族経営の事業者や自らに近い事業者への口利きを行い、この予算を食い物にしてきたのだ。これらの事業者の多くは、下請けに建設を委ねており、自らは建設能力を持たない。
フィリピンでは、アメリカ植民地統治のもとで民主主義が導入される一方で、自律的な官僚組織が発達しなかった。その結果、選挙で当選した政治家が、国家の財源やレント(ビジネス規制権限)を奪い合う政治が常態化してきた。政治家が公共事業を請け負う事業者の口利きを行い、裏金を要求する慣行も1920年代に遡るという。従来、その経費は「ポークバレル」と呼ばれる議員割当裁量経費が出所だった。
しかし2013年、多数の国会議員が、ポークバレル予算を架空のNGOを通じて詐取していた事件が暴露され、最高裁はこの予算そのものに違憲判決を下した。その後、予算は議員個人ではなく、中央の省庁に集まるようになった。
だが、多くの議員は議会を通じて、自らの取り分をインフラ予算に「挿入」し、実質的なポークバレルを確保してきた。その結果、腐敗ネットワークは中央省庁の役人をも巻き込んで拡大した。また裏金の額は、ドゥテルテ政権下で事業費10%、マルコス政権では20%に増加したという。
今回、疑惑の対象になっている上院議員には、2013年のポークバレル詐取事件で失職した者も複数含まれる。公共事業の利権を狙う悪徳事業者は、そうした政治家に接触して選挙戦を支援し、彼らが当選すれば、その見返りに利便を求めたようだ。汚職で失職した政治家が、選挙資金を獲得し、公職に復帰するために、さらなる汚職に従事する構造があるのだ。

汚職追及の政治
腐敗の追求は、政治的な派閥抗争のなかで展開されている。
前述した2013年のポークバレル詐取事件でも、当時のベニグノ・アキノ三世政権は、入手した情報を用いてアロヨ元大統領ら政敵を狙い撃ちした。今回もマルコス大統領は、施政方針演説で、腐敗に従事してきた者を「フィリピンの同胞らに恥じよ」と批判するなどして、主導権を握ろうとしている。
ただし、腐敗の構造は、自らの政権内部にも深く組み込まれていたため、汚職撲滅の成果を見せるためには、政敵を叩くだけでなく、自派閥にもメスを入れざるを得ない。マニュエル・ボノアン公共事業省長官、ルーカス・ベルサミン官房長官とアメナ・パンガンダマン予算長官が辞任し、従兄のロムアルデス下院議長も議長職を失った。今後も、行政監察院(オンブスマン)によって多くの政治家に対する起訴が続くだろう。
さらにマルコス大統領自身にも疑惑は及んでいる。11月、サルディ・コー下院議員が、議員職を辞して海外に脱出し、マルコスやロムアルデスから全責任を転嫁され、「トカゲのしっぽ切り」に利用されていると批判を始めたのだ。彼が数回にわたって発信したビデオ・メッセージによれば、大統領の命令で1000億ペソの予算を「挿入」し、そのうち250億ペソが大統領の取り分だったという。
コーは、地元のビコール州で公共事業を請け負う事業者を経営し、2000年代のアロヨ政権期から多くの汚職に関与してきた。マルコス政権では、ロムアルデス率いる下院で、歳出委員長として予算の配分の調整役を務めた。それゆえ、彼が汚職の実践を熟知しているのは確かである。ただし、証言には矛盾もあり、保身と責任転嫁のために虚偽の証言をしている可能性も高い。
ドゥテルテ派は、マルコス政権への批判の強まりから追い風を受けている。現時点でクーデタなどの動きは見られないが、もし政権が崩壊すれば、副大統領のサラが大統領に就任することになる。ただし、ドゥテルテ派も、この腐敗疑惑から無傷ではない。そもそも、インフラ事業を食いものにした腐敗が拡大したのは、公共事業予算を劇的に増加させた前ドゥテルテ政権においてだった。
前大統領の最側近クリストファー・ゴー上院議員も、腐敗疑惑で告発されている。彼の父親が経営する会社が、ディスカヤ夫妻の事業者と提携して8億ペソのインフラ事業を請け負うだけでなく、2007年から2018年にかけて少なくとも66億ペソのインフラ事業を政府から得ていたという。

2028年大統領選挙の見込み
ロムアルデスも失墜したことで、今後はマルコス政権のレームダック化が加速し、サラ・ドゥテルテが有力大統領候補になる可能性が高い。多くの議員が、「勝ち馬」に乗ろうと、マルコス派からドゥテルテ派へと離反していくだろう。中間選挙前にドゥテルテ派になっていたアイミー・マルコスも、大統領とその家族は違法薬物を常習していると公に語り、弟に対する批判をさらに強めている。
さらに、現在80歳のドゥテルテ前大統領がICCで拘束中に亡くなれば、選挙戦を決定するような同情票が生まれるはずだ。それゆえ、2028年選挙では、サラが大統領、アイミーが副大統領という組み合わせが、最有力候補になるだろう。
ただし、この巨大不正疑惑は、ドゥテルテ派にも波及しており、マルコスとドゥテルテの双方への幻滅が広がっている。たしかに、北部ではマルコス家、南部ではドゥテルテ家への支持は根強い。
だが、マニラ首都圏や中部では、納税者意識の高い中間層だけでなく、頻繁な洪水によって生命や財産を脅かされてきたより広範な人々の間で、腐敗への怒りと両家への幻滅が広がっている。9月以降、マニラ首都圏では大規模な抗議デモが繰り返し行われてきたし、11月初頭、巨大台風ティノによって200名以上の犠牲者を出したセブ市民の怒りも大きい。
それゆえ、マルコス家とドゥテルテ家のつぶし合いと両家への幻滅が進むなかで、国民の不満をうまくくみ上げるダークホースが漁夫の利を得て当選する可能性も十分にある。ただし、それが中間選挙で復活の兆しを見せたリベラル派になるのか、また別のポピュリストになるのかは、現時点では不明である。






