前半に引き続き、田中愛子さんのインタビューをお届けします。
【衝撃的な事件】
父親もいない、長男もいない、頼る人も誰もいない母親は、ジャングルの中で子供を5人抱えてどうしようもなく不安になっていた。そんな中で、衝撃的な事件は起こった。
急に、近くで機関銃の音が聞こえてきた。米軍が近くまで来ているのだ。その時、母親の様子が変わったことがわかった。その夜は、大きな木の下で、休むことにした。10人で手をつないでも、囲むことができない大きな木だったことを良く覚えている。
昼間、逃げている途中に芋が生えていたが、その時は近くに米軍がいた為、ゆっくり掘り返している時間がなかった。夜になり、食べ物もないのでそのイモを取りに戻ろうということになった。他の家族と一緒に、家族の為に芋取りに行った。深夜に戻り、寝ようとした時にすぐ下の弟が「痛い」と大きな声を出した。
最初はムカデにでも刺されたのかと思ったが、「怪我をした」と泣いている。見るとたくさんの血が出ていた。愛子さんは、まわりの人々に「誰か、助けてください」とお願いして回った。どこからともなく山中にいた人々がたくさん集まってきた。すると、しばらく姿の見えなかった母親が突然「天皇陛下万歳」と叫びながら、カミソリで首を切り自殺を図った。
その時初めて、母親がカミソリで弟2人の首を切り、無理心中を図ろうとしていたことがわかった。本当は、愛子さん達兄弟全員を殺してから自分も死ぬつもりだったが、三男が大きな声を出して騒ぎになった為、我を忘れて自殺を図ったのだ。幼かった一番下の弟ヨシカツは亡くなってしまったが、まわりの人の助けもあり、大きな声を出したすぐ下の弟と母親は、一命と取り留めた。
まわりからの情報で、軍に協力をしていた父も、同じ山中で避難していることがわかった。母や弟の看病をしながら、近くにいるだろう父親を探しながら進んでいた。避難中は何度も、山の中にいる良い人々に救われた。特に、先住民族のアタ族は、食べ物くれ、日系人をかくまってくれた。
ある時、アタ族の村でお世話になっていたら、そこで、奇跡的に父親に会うことができた。体も目も悪くした父親が、ボロボロのカバンを背負ってよろよろと杖をつき避難しようとしていたところを見つけたのである。
父親と会った母親は、開口一番に「ヨシカツを殺してしまった。ごめんなさい。ごめんなさい」と泣きながら何度も謝ったという。父親は、「おまえが生きていてよかった。おまえが生きていたから、あとの子供達も助かった」と言い、よしよしと抱きしめた。
父親と合流でき、家族が揃ってから、心を病んでいた母親の様子が心身共に急激に良くなってきたのがわかった。その一方で、戦闘で負傷した父親の体調は悪化していった。家族は、父の看病をしながら、逃げることになったが、父親は、だんだんと寝たきりの状態になってしまった。
【終戦の知らせ】
カガヤン方面を目指して進んでいた愛子さん達だったが、そのカガヤンから米軍が上陸する情報が入り、方向を変え、アポ山の方へ逃げることになった。カガヤンとダバオの間のマッキンレーと呼ばれていた山のてっぺんを歩いていた時に、終戦を知らせる宣伝ビラが降ってきた。終戦から数日後のことだった。戦争は終わった。3か月半の辛い避難生活だった。
結局、父親は山中で寝たきりになり、そのまま亡くなった。亡き骸をきちんと埋葬することさえできなかった。兄は、父親の持っていたお守りと、父親の髪や爪を切って持ち、家族で山を下りることにした。
下山したのは8月の末だった、家族5人は、米軍により収容所に収められることになった。米軍キャンプに運ばれ、その後、トリルの収容所に収められた。軍人と一般人は分けられていた。約1ヵ月もの間、収容され、その後、日系人は解放された。皆、憔悴しきっており、満足な食事もなく、骨と皮だけだった。
「思い出すだけでも辛い。とても胸が痛い。でも、話さないといけないと思っている。こんなにおばあさんになってしまったが、今でも『戦争は絶対ダメ!』と声を大にして言いたい。ずっとそう思って一生懸命生きてきた。戦争に、何一つ幸せなことはない。兄弟や子供達、周りの人には、いつもケンカはしてはいけないと言ってきた。お父さんとお母さんのことを思うと今でも本当に悲しい」と愛子さんは涙を浮かべ話した。
【戦後の生活がはじまった】
収容所から出てきて10月頃、日本人の強制送還がはじまった。日系二世を含め、日本人とその家族は、ダバオに残るか、日本に行くのかを選ぶことができた。姉と兄は日本に行くことを選んだが、母親はその他の子供達と残ることを選んだ。父親亡き今、家族で日本に行ったところで、苦労することは目に見えていると考えたのである。
アバカ栽培を行っていた家は、住めるような状態ではなく、日系人ということで、まだ危険でもあった為、母親の知り合いのところで世話になることになった。当時は、日本占領下の頃の恨みから、日本人を憎んでいる人も多く、日本人は、石を投げられたり、待ち伏せして殺されるようなこともあった。日本人や日系人は、日本人である証をことごとく捨て、息を殺して生きていかなくてはいけなかった。
1946年頃、愛子さんは学校に戻った。長い間、勉強から遠ざかっていたので、学ぶことが何より嬉しかった。特に、米国の支配下となった為、英語を勉強しないといけないと思った。とにかく学びたかった。しかし、学校では、日系人だということで、いじめられた。先生も、学生と一緒になっていじめてきた。
他の兄弟3人は、辛い状況の中でもなんとか学校にいくことができたが、経済的な理由で、お世話になっているお宅の養女になっていた愛子さんは、その家族から、危ないから学校へ行くなと言われてしまい、通学できなくなってしまった。村の村長さんの家だった。
学校へ行くなら、結婚してから2人でいけと言われ、村長の息子と結婚させられることとなった。当時はまだ16歳、子供だった。学校へ行けると思い渋々承諾したが、実際には学校へ行かせてもらえることはなく、毎日悲しくて泣いていたという。
家出も考えたが、姑に見つかって止められ、また泣いた。戦後の苦しい時期にお世話になった家族に対し、不義理なことはできない。自分のことを思い、その家に預けてくれた母親のことを思うと、辛くても我慢するしかなかったという。
愛子さんの学びたいという気持ちは、後になっても無くなることはなく、子供が生まれてからは、宿題を見ながら、英語やビサヤ語を一緒に勉強した。自分の子供達にも、積極的に日本語を教えた。母親が、いつか日本人として不自由なく暮らせるようになって欲しいと、愛子さんに言っていたからだ。表向きには日本人ということを隠しながらも、日本人としてのアイデンティティを忘れないようにして生きてきたという。
当時は、日本からダバオに来ることも大変だった。日本に行った姉は、1980年になってやっと母親に会いに来ることができた。この時に、姉が中心となり、ダバオに日系人会を立ち上げた。ダバオに残され、これまで苦労した日系人が日本人として認めてもらう為の大きな一歩となったのである。
88年、あるNGOの取り計らいで、愛子さんは、初めて日本に行くことができた。その時、43年ぶりに兄に会うことができ、言葉にならないくらい嬉しかった。当時は、日系人が日本に行くことは非常に珍しく、たくさんのマスコミが取材にきた。その後、兄は91年にやっと里帰りすることができたが、すでに母親は亡くなった後だった。お墓の前で、会えなくて残念だったと泣いていた。
【天皇陛下のフィリピン訪問】
2016年1月、天皇、皇后両陛下はフィリピンを公式訪問され、日系人と懇談をされた。愛子さんは会に招かれ、マニラまで両陛下に会いに行った。それまでは、自分の中だけでずっと我慢していた部分があった。しかし両陛下と会って、救われた気分になったという。
両陛下は、愛子さんに、「いかがですか」「大変でしたね」「ご苦労様でした」と3つの言葉を掛けてくれたという。たった3つの言葉だが、お気持ちがこもっていて涙が止まらなくなってしまった。気にかけてくださる優しいお気持ちに触れ、「ご苦労様」の言葉にとても救われた気持ちになった。これまでずっと心の中で悩んできた戦争の辛さを今後は忘れていきたい、幸せに生きたいと思う大きな転機となった。
インタビューは以上です。いかがでしたか? 愛子さんは、9人の子宝に恵まれました。教育熱心な愛子さんの思いが通じ、皆日本語が堪能で、日本国籍を取ることができたそうです。そして、何人かのお子さんは、現在日本で暮らしているそうです。
愛子さんは、「母親は、終戦後も、いつか日本人がまたフィリピンに来て、日本人として誇りを持つことができる時が来るだろう。子供達にも必ず日本語を勉強させなさいと言っていた。せめても母親の願いを叶えることができて嬉しい。」と最後に笑顔で話してくれました。
ダバオに住んでいると戦争と平和について考えさせられる機会が多くあります。ミンタルにある日本人墓地では、毎年八月に慰霊祭が行われており、日本からも多くの遺族の方が墓参に訪れています。しかし、遺族の方も高齢化が進み、だんだんとその数が減ってきていることも事実です。
愛子さん家族が逃げ延びることができたタモガン渓谷では、戦時中、数千人の日本兵が米軍に襲撃されて亡くなっており、毎年ボランティアの人々が遺骨拾いを行ってきました。今でもまだ多くの遺骨が残されていると言われています。
渓谷の上には慰霊碑が建てられ、集められた遺骨が納められています。慰霊碑の背部はガラス張りになっており、収集された遺骨を見ることができますが、国の為に命を掛けて戦い、亡きあとも日本に戻ることができていない日本兵と、そのご遺族の無念さを思うと胸が締め付けられる思いです。
フィリピンの戦闘で、30万人以上の日本人が亡くなったと言われています。亡くなったのは日本人だけではなく、多くのフィリピン人やアメリカ軍兵士も命を落としていることを忘れてはいけません。「戦争は絶対ダメ!」辛い戦争を経験した愛子さんの言葉が、世界中に届くことを願うばかりです。