【コラム】ダバオのクラフトコーヒーと地鶏のアドボをもてなしてくれたのはシブランの山に残留していた2世のおばあちゃん

父の消息はわからなかった。生きて強制送還されたのか、どこかで戦死してしまったのか、何もわからなかった。「生活は苦しかったよ。芋やトウモロコシを育ててなんとか食いつないだ。お母さんはお父さんのことが大好きだったから、再婚することもなかったよ。私は、一緒に山中を逃げたバゴボ族の男性と結婚したの」ハツエさんはフィリピン人の夫との間に8人のこどもをもうけ、シブランの山でささやかに暮らしてきたのだった。

「表向きはフィリピン人として生きるしか道はなかったけれど、でも、やっぱり自分は日本人だという思いがずっと胸にあった。父のことを知りたかったし、生きているのならば会いたかった。だから90年頃に、日本人学校の同級生だった田中愛子に教えてもらって日系人会を訪れて、父の身元捜しをお願いしたのよ」

外務省の外交史料館に保管されていた戦前のフィリピンへの渡航者記録である「旅券下付表」から、「アカボシミノル」という名前と合致する人の記録が見つかったのは、2010年のことだった。続けて、連合軍が捕虜収容所で作成した「俘虜銘々票」(アメリカの国立公文書館所蔵)からも、赤星實さんのデータが見つかった。父は生きて捕虜となり、日本に強制送還されていたのだった。しかし、1969年に本籍地ですでに亡くなっていることも判明した。ハツエさんの、父に会いたいという願いは叶わなかったが、しかし、日本人の父が誰であったのかを明らかにすることができた。