【コラム】ダバオのクラフトコーヒーと地鶏のアドボをもてなしてくれたのはシブランの山に残留していた2世のおばあちゃん

ハツエさんの家を訪問するたび、心のこもったおもてなしをいただく。きっとハツエさんのお父さんも、こうして客人をもてなしていたのではないだろうか。1926年生まれのハツエさん、記憶の中の父親像は鮮明だった。「お父さんは熊本の出身、7人きょうだいで、男は5人、女は2人と言ってたわね。私はお父さんとは日本語で話をしたですよ。お父さんは、お母さんとチャバカノ語で話していたけれど、私や妹のサダコが日本語で話さないと叱るんですよ。でも、もうずいぶん日本語を忘れてしまった」

戦前にダバオに入植した實さんがバゴボ族であるハツエさんのお母さんと結婚したのは1925年のこと。バゴボ族のスタイルで、頭をゴツンとぶつけて結婚したという。翌年にハツエさんが生まれ、28年にサダコさんが生まれた。サダコさんが生まれた頃、實さんは雑貨店の経営を始めた。野菜や芋、米のほか、實さんが飼育していた豚や鶏の肉も売っていたという。

「でんでんむしむしカタツムリ・・・」ハツエさんは、父親から教えてもらったという童謡を今も口ずさむ。カティガンの日本人小学校に1年だけ通っていたというハツエさんには、同じ2世の同級生がたくさんいる。しかし、間もなく戦争が始まり、学校に通うことができなくなった。

「戦争が始まると、父は日本軍に徴用されてしまった。ずっと軍隊と一緒に行動していたから、兵士になったんじゃないかしら。戦争が激しくなると、私と母と妹は、近所のバゴボの知り合い家族と一緒にシブラン川の上流、山の方へと避難したよ。でも、父は日本軍のところで働いていたから、一緒に避難することはできなかった」離れ離れになる直前、實さんが言った言葉を今もハツエさんは覚えている。

「一生懸命、毎日働くんだぞ。食い物がなくなれば死ぬ。一生懸命になれ」それが父親との最後の会話だった。それきり、二度と会うことはなかった。「逃げなければ、みんな殺されたですよ」避難先の山中では、日本人であるとわかると殺されるような状況だったが、フィリピン人を装い、一緒に逃げたバゴボ族のファミリーにも助けられ、ハツエさんたちはなんとか生き延びて終戦を迎えた。