【コラム】平和に共存していた邦人社会は跡形もなく崩壊した<後編>

タモガン奥地のジャングルに、陸軍部隊の兵士と在留邦人が逃げ込んだ。その数3万人以上。逃げていく彼らを待ち受けていたのは米軍やゲリラの攻撃だけではなかった。飢えという最大の敵に苦しめられる、地獄のような敗走の日々が始まったのだ。

©PNLSC ダバオ新聞1944年7月29日

フィリピン戦線では、日本兵62万5800人のうち、49万8600人が飢えや病によって命を落としている。そしてその倍以上である111万人のフィリピン人犠牲者の存在も忘れてはいけない。そして、在留邦人も約8500人が亡くなったと言われている(ダバオ会調べ)。

生き残った日本人たちは、敗戦を知り、ボロボロになって山から降りてきた。そして、かつてのよき隣人たちの目に激しい憎悪の色が浮かんでいるのを目にすることになる。「人殺し!」「ハポン!」石が投げつけられ、怒りの言葉が飛んできた。血のにじむ思いで築き上げ、地域と共存していた邦人社会が跡形もなく崩壊したという現実を、在留邦人たちは思い知ったのである。

生き延びた日本人の父たちは収容所に入れられ、日本へと強制送還された。しかし、フィリピン人の母を持つ2世の子どもたちの多くは、戦中に父と離れ離れになっており、母とともにフィリピンにとどまるしかなかった。こうして、ミンダナオ地域だけで1346名、フィリピン全土では3836名もの日本人の子どもたちが、戦中に父を失い、あるいは生き別れて、フィリピンに残留したのである。彼らが、今もなお、フィリピンの村々で、日本の親族探し、日本国籍の回復を求め続けている「フィリピン残留日本人」である。

戦後75年が経過し、かれらの平均年齢はすでに81歳を超えた。毎年、100人規模の残留者が国籍回復を果たすことができず、無念のままこの世を去っている。