【コラム】平和に共存していた邦人社会は跡形もなく崩壊した<後編>

1942年5月のミッドウェー海戦での大敗後、多くの餓死者と病死者を出したガダルカナル、サイパン、テニアン、グアムなど、民間人も巻き込み、日本軍の玉砕や敗退が相次いだ。ニューギニア戦線やインパール作戦などでは、食糧の補給路を絶たれたまま前進を命じられた兵士たちの多くが飢えや病気のために命を落としていった。日本軍の物資不足は深刻だった。そこで、ダバオは一大食料補給基地としての役割を担わされることになる。苦労して開墾した麻山は畑に転用され、在留邦人たちは海軍直営の生産隊に組み込まれた。しかし、戦局はいよいよ厳しさを増していた。

©PNLSC 学童による海軍施設部入隊式

1944年7月末、日本軍政当局は、ついに女性から子どもに至るまで、あらゆる在留邦人を軍属として取り扱う「超非常措置」を決定した。全在留邦人が軍属となり、ダバオの人々にとっての「敵」となってしまったのである。当時の日本の国籍法により、日本人男性と結婚したことで日本人となったバゴボの女性たちも、同様に「軍属」という扱いの中に巻き込まれていった。続く8月21日には、現地陸軍当局から「在留邦人に告ぐ」とした非常事態宣言が伝えられた。「老若男女を問わず決死もって殉皇の大義に徹し、一切の自我を棄て、万物を挙げて軍の戦力に寄与せんことを決心しあるべし」

しかし、このような決死の呼びかけも虚しく、1944年10月、マッカーサー司令官率いる大艦隊がレイテに上陸。圧倒的な兵力の差に日本軍は散り散りになって山中を逃げ惑った。45年2月には米軍はマニラを陥落、そして4月にミンダナオ島への上陸が始まり、ダバオの日本人社会は大混乱に陥ったのである。