【コラム】なぜフィリピン人は「規律」を求めるのか?

おそらく、フィリピンの「規律」は、家父長の大統領による、国民への「家庭内暴力」も伴った「しつけ」として理解できる。決して品行方正ではないドゥテルテの「規律」を国民が支持するのは、ダバオの不良が大統領にまで上り詰めたという経歴が、「規律」による自己変革を表象するからであろう。マニラ市長のモレノも、貧困から「規律」によって自己変革を遂げたという物語を体現している。経済成長のなか、多くの者が自由を制限する「規律」を受け入れて自己変革することを求められているからこそ、それを拒絶する「悪しき他者」(pasaway)への敵意が強まるのである。

ドゥテルテ大統領のダバオの自宅は地元の人気観光スポットになっている。

こうした人々の「規律」への自発的な服従がなくては、この2か月以上にもわたる厳格な防疫も実施不可能だったに違いない。多くの人々が語るように、「規律」はフィリピンがまともな新興国へと発展するために不可欠なのかもしれない。しかし、かつて社会を覆っていた善悪が曖昧なグレーゾーンは消失し、敵意と排除に満ちたストレス社会が立ち現れつつあるようだ。これが「発展」の代価なのだろうか。