【コラム】なぜフィリピン人は「規律」を求めるのか?

次に、多くの若者が急成長するサービス産業に職を得て、一定の社会上昇を果たす一方、グローバル市場のなか規律化された「人的資源」として働くことを求められている。厳格な職務規定のもと、生活の自由は減り、ストレスは増大した。親世代は、農業やインフォーマル経済のもと貧困を生き、努力や才覚も報わなかったが、より自由だった。しかし、今では自己を規律化し努力すれば、「成功」が手に入ると信じられている。こうした社会で悪戦苦闘する者たちが、ろくに働かず麻薬や酒浸りの者らを嫌悪し、その殺害さえ容認するのは理解に難くない。

ドバイ国際空港では多くのフィリピン人海外労働者が働く

そして、多くの者が海外への出稼ぎや旅行を通じて、「規律」ある社会がどのように機能しているのかを体験した。その結果、例えば交通違反を咎める警官に賄賂を渡すなど、法を破るのは短期的には個人の利益になっても、長期的には公的サービスを破綻させてしまうという危機意識が深まった。法を遵守する不都合を受け入れた方が、結果的に良い社会を作れるという自覚が生じたのである。個人と国家の間にある「公共」の概念が強化されたといっても良い。

ただし、フィリピンの「規律」は、日本のように「世間」による同調圧力としての「規律」ではないだろう。「世間」に合わせて自己調整を強いられる日本人よりも、フィリピン人の方が自分の信念をより雄弁に語るからだ。かといって、西洋的な意味での法の遵守とも異なる。自立した個人が契約によって作る法は非属人的だが、フィリピンの「規律」はきわめて属人的だ。